陳宮の行動は私にとって謎である。
彼は最初曹操に仕えていた。彼は曹操に厚遇され、彼自身も曹操のエン州支配に貢献し積極的に活躍していた。 董卓の死後、青州の黄巾軍がエン州に侵入し、エン州を治める劉岱が黄巾軍と戦って戦死した場面である。 『世語』から引用する。
劉岱が死んだ後、陳宮は曹操に向かって言った。「エン州は現在あるじがいません。しかも天子からの命令は断ち切れています。 私は州内を説得したいと存じます。とのには後から行かれてその地を治めてください。それをもとでとして天下を収拾なさいませ。 これこそ覇王の業です。」陳宮は別駕や治中を説得した。 「今、天下は分裂しているのにエン州には主がいない。曹東郡太守は世に名だたる才能の持ち主ですぞ。もし迎え入れて州を治めさせれば、 民草を静めるに違いありません。」鮑信らもその通りだと考えた。
『魏書』武帝紀引注『世語』
これにより鮑信は曹操をエン州に迎え入れる決断をし、曹操は黄巾賊を撃ち破り、エン州を支配し、さらに青州軍という精鋭を手に入れる。
陳宮は曹操の基盤を得るのに自ら積極的に行動していたのが分かる。 にもかかわらず、なぜか突然曹操を裏切り呂布をエン州に迎え入れる。 なぜ曹操を裏切ったか謎である。
呂布を慕っていた形跡はない。 呂布とともに曹操に捕らえられた時について『典略』という書物に次の記載がある。
曹操が陳宮に「君は常に有り余る智謀の持ち主と自認していたのに、今はいったいどうなったのだね。」というと 陳宮は振り返って呂布を指さして言った。 「この男が、わしのいうことを聞かなかったためにこんなことになったのだ。」
『魏書』呂布伝引注『典略』
呂布のことを「この男」と言っている。原文は「此人」である。 あまり尊敬した言葉ではないだろう。
本当かどうかは知らないが『英雄記』という書物に、カク萌という人物が呂布に反乱を起こした時、陳宮が加担していたという記載すらある。
呂布のことを尊敬していなかったにもかかわらず、呂布に仕えたのも謎だし、 呂布に対する忠義もないのに、曹操に捕まった時に曹操に降らず斬られるほうを選んでいるのも謎だ。
ひとつの考えとしては一度呂布に仕えた以上、呂布の為に殉じる忠義の士だったという考えがある。 それも納得がいかない。 忠義の士ならなぜカク萌の呂布への反乱に加担したのか。 忠義の士ならなぜ曹操に厚遇されながら曹操を裏切ったのか。 全く分からない。
なぜ曹操を裏切ったのか。自分の出世を考えたのだろうか。 曹操がエン州不在の時に呂布とともに曹操を攻撃すれば、うまくいけば出世する可能性もある。 曹操に仕え続けても出世はするが何人もいる智謀の士のひとりに過ぎない。 曹操がエン州を留守にしているのが絶好の機会と考え呂布と結んだ。
しかし陳宮が私利私欲を重んじる人物だったならば、最期に曹操にに捕らえられた時に曹操に降伏するだろう。 曹操自身陳宮に降伏するようににおわせる発言をしている。 陳宮は自分の私利私欲を重んじるならば何とか生き延び、また出世のチャンスを得ようとするに違いない。 私利私欲を重んじた呂布が曹操に「俺を用いないか」と誘ったように。 しかし陳宮はあえて斬られるほうを選ぶ。
陳宮の行動は一貫性がない。一体何がしたいのか全く分からない。 謎なのだ。
さらに言うと陳宮に対する曹操の行動もやや意味不明である。 陳宮を捕らえた時、曹操は陳宮に怒りをぶつけず、降伏を促すような言葉をかける。 陳宮が拒否し処刑場に陳宮が走り去ると曹操は涙を浮かべて見送る。 陳宮の死後はその家族を手厚く待遇する。
陳宮は曹操を裏切って曹操を危機的状況に追い詰めた張本人にもかかわらずである。 冷酷な一面を持つ曹操がなぜ陳宮にそんなに同情するのかよくわからない。
そもそも陳宮ほどの知者が呂布のような人物に仕えるのも、疑問である。
『大学』第六章を引用する。
書下し文
君子は先ず徳を慎む。徳あれば此に人あり、人あれば此に土あり、土あれば此に財あり、財あれば此に用あり。
現代語訳
君子はまず徳を充実させる。徳があれば自然に人が帰服し、人が帰服すれば領地が得られる。領地が得られれば財物が豊かになり、財物が豊かになれば事業が起こる。
「徳→人→土→財→用」の順番で有徳者に天下の人、土地、物、財が集まっていくと述べている。 曹操、劉備、孫呉にほぼ当てはまる。彼らには徳があった。その徳を慕って文武の人材がたくさん集まり、その結果領土が増え財は豊かになり、大業が起こった。 実際、「人、土地、物、財」は結果的には彼らに集まったのである。
荻生徂徠は「徳あれば人あり」の「人」を知者と解する。実際三国志を丁寧に読むとすぐ気が付くのだが、知者は徳がある者に集まり、 徳がない者を避けようとする。知者はほとんどの場合曹操か劉備か孫呉か表面的な徳のあった袁紹に集まっている。 学問を保護した劉表に学者が集まるというのはあるが。 知者は徳ある者が天下に太平をもたらすと知っているので、徳ある者を選んで仕えるのである。
しかし例外はある。その例外のひとりが陳宮である。なぜ彼ほどの知者が呂布に仕えたのか。私には謎である。
その経緯について『典略』に次の記載がある。
天下動乱の世になって、最初は曹操につき従っていた。その後、疑心を抱き呂布に従うようになった。
『魏書』呂布伝引注『典略』
「疑心を抱き」というのが曹操を裏切って呂布に仕えた原因だが、原文では一文字「疑」とあるのみである。 この一文字に無限の意味がある(笑)。
三国志演義では呂伯奢殺害事件で陳宮は曹操から離れている。 有名な「私が人を裏切ろうとも、人に私を裏切らせたりはしない」という言葉である。 これを危険視した陳宮が曹操から離れたのだ。
もちろんこれは演義の創作で史実ではない。 史実では何が原因だろうか。
私の推測ではその原因は曹操による徐州の民の虐殺にある。 もちろん曹操の父親が殺されたのを曹操が陶謙のせいにしたためその報復である。
陳宮の反逆はちょうどその時期である。 曹操の冷酷さをそのときはじめて知り、正義のために曹操は除かなくてはならないと考え反逆した。 演技の解釈は全くの創作ではあるけれど、曹操の冷酷さを知って曹操から離れたという点だけに関しては、 当たっているのだと思う。 先に引用した「疑心を抱き」というのは「曹操の人格に疑心を抱いた」という意味に解する。
陳宮は曹操のそばにいて曹操の偉大さを知っていただろう。 曹操が天下を取っていくという予測も出来ていたと思う。 だからこそ曹操に仕え、積極的に曹操を助けていたし、 曹操を通して天下に太平をもたらそうという志があった。 それだからこそ曹操も陳宮を厚遇していたのだ。
しかし曹操の残酷さを見てこれは危険だ、と少なくともそのときは深刻に思ったのではないか。 まだ曹操が天下を取る前の今のうちに排除する必要があると考えた。
協力相手としては呂布が最も適切であった。 武勇と行動力だけはある呂布はすぐにでも曹操を攻撃するだろう。 これと協力すれば曹操を排除できる、と考えた。 実際呂布はすぐに曹操を攻撃していく。
『易経』坤掛の初六に次の言葉がある。
書下し文
霜を履みて堅氷至る
現代語訳
霜が初めて降りる季節になると、やがて堅い氷が張る時期が来ると予想するべきである
陳宮からすると、曹操のような冷酷な人物が天下を取るまえに、曹操を除かなくてはいけない。 まだ曹操が天下を取る前のいわば「霜が降り始めた季節」のうちに、「堅い氷が張る時期が来る」前に早めに対処するべきだと考えたのだろう。
『老子』第六十三章に次の言葉がある。
書下し文
難きをその易きに図り、大なるをその小さきに為す。
天下の難事は必ずその易きより起り、
天下の大事は必ず小さきより起こる
是を以って聖人は終に大を為さず 故に能く其の大を為す
現代語訳
難しい仕事はそれが易しいうちに考え、
大きな仕事はそれが小さいうちに対処する
世界の難しい問題もかならず易しい問題から起こり、
世界の大きな問題はかならず些細な問題から起こる
そのため聖人は大きな仕事を行わない
ゆえに大きな仕事を為すのである。
悪いことが起きるにも前兆がある。 聖人はその前兆をみてまだそれが小さいうちに対処する。 だから大げさな仕事をしない。 おおげさな仕事をしないからこそ、偉大な仕事をする。
これは陳宮の当時の心中だったのではないか。 要は陳宮は曹操をヒトラーのような人物と思ったのである。
曹操は天下を取る力がある。しかしその内面は残虐。 天下を取らせる前に除くべき存在。
だからこそ厚遇されていたにもかかわらず曹操に背き、 尊敬してもいない呂布に仕え、 最期に曹操に降伏するようにとにおわされても拒絶した。
「冷酷な曹操を除く」という彼なりのやや潔癖な正義に基づいて行動していたのだと思う。 一見一貫性のない陳宮の行動もそのように考えると、 陳宮なりの正義で終始一貫していたのだと言える。 確かに曹操はヒトラーとは違い天下に太平をもたらす英雄であったが、 陳宮も陳宮なりに正義の士だったのだ。 陳宮の人生はその正義感がもたらしたひとつの悲劇だったといえよう。 彼が最期に曹操に降伏せずに斬られたのは、呂布に殉じたのではなく自分自身の信念に殉じたのである。 たとえそれが読み違いだったとしても。
曹操は冷酷な一面は持っているが、思っていたような悪ではない、と陳宮は途中から気づいた可能性もある。 しかしそのときはもうすでに遅かった。もう後戻りできなかったのである。 『典略』から陳宮の最期の場面を引用する。
曹操が笑いながら「今日の事態をどうするつもりかな」というと陳宮は 「臣下としては不忠者であり、子供としては親不孝者だったのだから、殺されるのは自業自得だ。」と答えた。 曹操が「君はそれでいいだろうが、君の年老いた母親をどうするつもりかな」というと、 陳宮は「私は『孝』の倫理をもって天下を治める者は人の親を害さない、と聞いております。 老母の生命は殿の心にかかっています。」と言った。 曹操が「君の妻子はどうするのか」というと、陳宮は 「私は『仁』による政治を天下に行う者は人の祭祀を断絶しない、と聞いております。 妻子の生命は殿の心にかかっています。」と言った。 曹操がそれ以上口を開かないうちに、陳宮は「どうか早く表で処刑して、軍法を明らかにしていただきたい。」と言い、 そのまま表へ走り出ていき、ひきとめることができなかった。 曹操は涙ながらにこれを見送ったが、陳宮は振り返ろうともしなかった。陳宮の死後、曹操は彼の家族全員を最初より手厚く待遇した。
『魏書』呂布伝引注『典略』
曹操は陳宮の老母や妻子のことを述べて明らかに陳宮に降伏するようににおわせている。 そして曹操自身、自分を裏切った陳宮を許す気持ちもあったかもしれない。 しかし陳宮はそれを受けない。彼は彼なりに斬られることで自分の行動にけじめをつけようとしたのであろう。
我々にとって陳宮の人生は必ずしも他人ごとではない。 我々も、現代日本に権力をとる人物が出てきたときに、その人物が曹操なのかヒトラーなのか見分けなくてはいけない。 ヒトラーが出てきたら止めなければいけない。 曹操が出てきたら、その人物がヒトラーではなく曹操だと見分けなければいけない。 見分けられれば荀攸のようになり、見分けられなければ陳宮のような悲劇になるのだ。 そしてこれを見分けるのはなかなか簡単とは限らない。 歴史の結果を知っている我々は簡単に見分けられるが、同時代の人にはこれがなかなか簡単ではない。 難しい問題だと思う。
陳宮がなぜ自分を裏切ったか曹操も知っていたはずである。 曹操自身、徐州の虐殺はやりすぎだったと思っていただろう。 そして曹操の人格に疑いを抱いて陳宮が反逆したのも、ある程度まっとうな理由がある仕方ない行動だったと曹操は考えていた。 曹操は一見冷酷な人間のようだが、実は正義の士に対してはかなり寛容である。 関羽が劉備に忠義を尽くして曹操のもとを去ったのを許したのは有名である。
陳宮も陳宮なりの正義に基づいて自分を裏切ったのだと恐らく同情していたのだろう。 陳宮が私利私欲のために自分を裏切ったのであれば、冷酷な曹操は陳宮に対して容赦しなかったと思う。 しかし陳宮の正義感を理解していたからこそ曹操は陳宮の死を涙ながらに見送ったのであり、 その家族を手厚く待遇したのである。 陳宮の正義感とその才能を考え惜しい男だと思ったであろう。 曹操の陳宮への同情はそのように考えないと合理的に説明がつかない。
陳宮の最期の場面で、曹操も陳宮も徐州の虐殺にはあえて一言も触れない。 しかし二人とも無言のうちに互いの思いを理解していたと思う。 自分の信念を貫いてそれに殉じた陳宮と陳宮に共感し涙ながらに見送った曹操。 このシーンも三国志の数多い名場面のひとつかもしれない。
■上部の画像は熊谷守一
「かまきり」。
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