我々は自分の脳内しか見ていないか

我々は外界を認識しているつもりだが、本当は夢を見ているにすぎないのではないかと言う人がいる。私は実在論をとる。 独我論は成立しないでその内容は述べた。 だから夢を見ているのではなく我々が認識している世界は実在すると思っている。確かに錯視などがある。視力が悪くなれば正確に外界を認識できない。 しかし外界は恐らく存在している。そう考えたほうが真理整合説的にうまくいく。

人によっては我々は自分の脳内を認識しているだけで外界を認識していないという人もいるかもしれない。確かにそう述べることはできる。しかし「世界には脳しかない」と仮に主張するならばそれは間違えている。

脳が存在する根拠は何か。それは解剖学的な知識が根拠になっている。人を解剖すれは脳が存在すると分かる。「世界には脳しかない」のであれば「脳が存在する」というのが前提になる。そうであればその根拠である「解剖学的知識が正しい」というのも前提になる。であれば解剖学的に存在が証明された、胃や腸などの他の器官も存在するという結論になるはずである。脳の存在を認めた以上、視覚によって認識された他の外界の実在も前提とせざるを得ない。実在論になるはずである。

それでも我々は脳の中しか見ていないという主張は恐らく正しい。確かに我々は自分の脳内しか見ていない。しかし我々が見ている自分の脳内の現象は外界を大雑把に正しく反映している。我々は自分の脳を通して外界を見ているはずである。

私は野球ができないが、仮に野球がうまいとする。セカンドを守っていて打球が飛んでくると華麗にボールをさばいてゲッツーをとる。私はボールをうまくさばいているつもりである。しかしそれは自分の脳内を見ているに過ぎないと言える。

しかし他人の場合はどうだろうか。例えば私は他人であるプロ野球選手がゲッツーをとるのを見ているとする。プロ野球の選手はセカンドを守りボールを華麗にさばいてゲッツーをとる。確かにその野球選手は野球選手自身の脳内を見ているはずだ。しかし脳内を見ているに「すぎない」のであれば、ボールを華麗にさばくことはできないはずである。ボールをさばけている以上はその野球選手は自分の脳内を通して外界を大雑把に正しく認識できているはずだ。

いやその野球選手がゲッツーをさばいているのも私自身の脳内を見ているに過ぎないのだという人もいるかもしれない。しかし解剖学という視覚的根拠によって存在が証明された脳が存在するという前提に立つならば、すでに述べたように他の視覚的存在も存在するという結論になり実在論にならざるを得ない。たしかに脳内を見ているのだが、脳を通して実在する野球選手を見ているという結論になるはずである。我々は自分の脳のなかしか見れないかもしれないが、自分の脳を通して実際に大雑把に実在を見ているのである。

「世界には脳しかない」「我々は自分の脳内しか見ていない」という主張は一見刺激的な奇抜な結論のようであるが、実際に内容を検討すると「世界には脳しかない」は間違えており「我々は自分の脳内しか見ていない」というのは当り前のことの一面だけを強調して主張しているに過ぎないのである。

モンテスキュー『法の精神』序文に次の言葉がある。

この本には今日の諸著作の特徴である警抜な表現は見いだされないであろう。いやしくも事物を一定の広がりにおいて見さえするならば、 警抜さは消え失せてしまうものである。警抜さというのは通常、精神が全く一方にだけ傾倒し、他方はすべて顧みないからこそ生まれるものなのである。

部分のみを捉え物事の一面のみを強調する精神から奇抜さが生まれる。全体をとらえるならば奇抜さは消え失せる。


■上部の画像はガウディ

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作成日:2023/5/18