思想の友達

twitterをしている。そんなにつぶやかないが、タイムラインはなるべく見るようにしている。

twitterは面白い。色んな意見を聞ける。twitterをしていないと聞けないような意見がたくさんある。

去年一年を振り返っていつもより2倍近い収穫と成長があったのも、一部はtwitterのおかげだと思う。

もっともあまりたくさんフォローしておらず、フォロワーも少ない。フォローしているのは60人くらいだが、実際に読むのは7,8人で、毎回、同じ人たちのツイートを読んでいる。それぞれに自分の信念を持っている人たちで、そのようなツイートは非常に参考になる。

普通に生活していたらそのような人たちの考えは聞くことができない。twitterの威力を思い知る。

私が誰かをフォローする時は、その人のツイートの内容で決める。好きか嫌いかはあまり関係ない。その人のツイートから学べる内容があるかどうかが基準だ。

サッカーの本田選手の言葉に次の言葉がある。

成功にとらわれるな。
結果にとらわれるな。
成長にとらわれろ。

好きな言葉のひとつだ。フォローするかどうかはその人のツイートから学べるか、私がそのツイートによって成長できるかで決める。フォローを解除する時もあるが、それはその人のツイートが面白くないときだ。

顔を見るのも嫌だというほど嫌いになれば解除するだろうけれど、そこまで嫌いになった相手はそんなに多くない。

twitterをしていて悩むのが、思想の友達をつくるかどうかという問題だ。現在は消極的だ。

自分の信念は大切にしたい。

そして相手の信念も大切にしたい。信念のある人の言葉を聞きたいのであって、信念のある言葉こそ私を成長させるから当然だ。

そして自分と相手の信念は当然ながら一致しない。一致しないから面白いと言っていい。

もちろん全く共通点の無い人との間ではそもそも話がかみ合わないから得るところはない。しかし信念が完全に一致すれば共感は生じるが得るところは少ない。共通点はあるが違いも大きい場合は得るものが多い。

『言志耋録』の一八四に次の言葉がある。

現代語訳
自分と価値観や思想が同じ者がいたなら交際するがよい。しかしそこから得るものはあまり多くない。自分と価値観や思想が違う者がいたらやはり交際するがよい。そしてそこから得るものは非常に多いだろう。

書下し文
人我に同じき者あらば交わるべし。而れどもその益を受くること太だ多からず。我に同じからざる者あらば、また共に交わるべし。而もその益は則ち少なきに非ず。

『言志耋録』の一八六に次の言葉がある。

現代語訳
多くの場合、人は自分と同じ価値観の人を好んで、自分と違う価値観の人を好まない。しかし私は自分と違う価値観の人を好んで、自分と同じ価値観の人を好まない。なぜか。価値観の違う人同士は互いに相反するかのようだが、しかし相互に助け合うのは必ず相反する者同士である。相反するもの同士が助け合うから万物が生成するのは窮まりがないのである。この道理は知らなくてはならない。

書下し文
凡そ人は同を喜んで異を喜ばず。余は異を好んで同を好まず。何ぞや。同異は相背くが如しと雖も、而も其の相資する者は、必ず相背く者にあり。然る後に万物の生々窮まり無きなり。此の理知らざるべからず。

価値観が同じ人同士だと一見安心だ。そういう人と付き合えば居心地も良い。自分の価値観が揺さぶられることもない。そして共感も大きい。しかし得るものは少ない。成長は止まる。

価値観が違う人と付き合うと自分の価値観が壊されるかもしれない。自分の価値観が崩壊すれば自分が成長する可能性もあるが自分の長所が消える可能性もある。過去の歴史を見ると思想的天才と付き合った平凡人はみな自分の思想を破壊される。「アリストテレスのせいで、アリストテレスがいなければ立派な哲学者になれた人々が、みなアリストテレスの模倣者になってしまった」と言われることがある。

ニーチェの『人間的、あまりに人間的』に次の言葉がある。

あらゆる偉大な天分は、多くの弱い力や萌でたばかりの芽を押し潰して、自分の周囲の自然を荒廃させてしまう宿命的な性質を持っている。

偉大な思想家は周りの思想家たちを自分の模倣者にしてしまう。周りの人たちの思想を荒廃させる。

もちろん明らかに自分が間違えてた場合は改心するのは全く問題ない。憲法9条の護憲は私は間違えていると思う。そのような場合は考えを改めるのは大切なことだ。自分の価値観を保持するべきかかえるべきかは実際のところケースバイケースである。

ただそれなりに多くの場合、自分の価値観が壊されないよう相手と適切な距離をとれば得るものは非常に多い。これも正解は中庸にあるのか。価値観が同じ人としか付き合わないのは中庸に反する。価値観が違う人と距離を取らずに付き合うのも中庸に反する。

価値観が違う者同士は相反し対立する。陰と陽が相反するのと同じだ。しかし互いに助け合うのは陰と陽である。この陰と陽の働きから万物が窮まりなく生成する。これが中国思想の道理である。だから違う価値観の者同士は実は助け合うようにできている。違う価値観の人の思想を学ぶことで自分の思想を完成し成長させられる。

しかし我々は聖人ではないので、だからと言って価値観の違いを互いに理解しあえるとは限らない。そしてこちらも相手の信念に合わせるつもりはないし、相手にこちらに合わせてほしいとも思わない。

しかし仲良くなり思想の友達になると互いに忖度し始める可能性がある。AさんがBさんに忖度して発言すると、その言葉はAさんの言葉ではなくなる。明らかに面白くなくなるのだ。

共感はもちろんいい。AさんがBさんに共感して発した言葉は、紛れもなくAさん自身の言葉だからだ。

忖度した言葉は面白くない。本人の言葉でないと生きた言葉ではないし、読んでて面白くない。

私は「思想の友達」という概念をやや疑っている。相手に気兼ねして本心を言わないで仲の良さを保っているのではないかと勘ぐってしまう。だから今のところ思想の友達をつくるつもりはない。

誹謗中傷は嫌だが、正しい指摘はいい。もちろん批判されると誰しも人間なので腹が立つことはある。しかしそういう意見ほど2日後に思い出すと自分のためになっていることが多い。

私は言いたいことを気にせず言うほうなので、よく他人と険悪になる。どうせまた険悪になるなら最初から仲良くしないほうがいいのではないかと思ったりする。適度な距離を保っていれば、その時その時で間合いをとったり間合いを詰めたりできる。

『礼記』だったか次のような言葉が確かあった。

和して敬せずんば則ち流る。 敬して和せずんば則ち離る。

私は「敬して和せずんば則ち離る。」の典型のような気がする。古典を引用しているのに実践は追いつかない。

原因は私のコミュニケーション力の無さなのかもしれない。仲良くしても言いたいことを言い合える友人はコミュニケーション力があればつくれるのかもしれない。

それとも日本人特有の空気を読んでしまう習性なのかもしれない。そのような要素は私のなかにも確かにある。

大学時代に教授と険悪になり嫌な思いをして「あつものに懲りてなますを吹く」のたぐいかもしれない。

100年前ヨーロッパの高名な精神科医にフロイトとユングと言う人がいた。ユングはフロイトの弟子だった。仲が良かった。

しかしユングはフロイトに忖度していた。フロイトの持論にユングは反対だった。しかし反論しないようにしていた。しかし最終的に意見の相違で両者は決別した。ユングはフロイトとの決別でしばらくの間、深く深く落ち込んだという。

人間の達人、コミュニケーションの達人であるユングですら忖度していたのだ。日本人と違い自己主張がうまい西洋人であるユングですら忖度した。

コミュニケーション力が乏しく空気を読む日本人である私だけがそうなるのではないのだ。

あと私は他人を激怒させるという根本的な欠陥を持っている。文章を書くとき十分な論拠をもって書くときと十分な論拠が無くて書くときがある。

論拠が十分ではないときは、私の意見に反対の人が読んでも「そんな考えか。オレはそう思わんけどな。」という感じで終わるだろう。しかし論拠が十分な場合は、私の意見に反対の人の生涯の持論を徹底論駁してしてしまっている場合がある。私の知らないところで誰かを激怒させてしまっている場合がしょっちゅうある。大学時代からそうなのでもう慣れている。

誰かの足を踏まずに歩くことはできない。だからと言って歩みを止めるわけにもいかない。いちいち気にしてもいられない。

思想の友達をつくってもいずれ険悪になるのは明らかだ。

もっとも他人を激怒させるとは言っても悪気はない。大学生の時は確信犯的に教授の持論を徹底批判していたが、現在はそのころのように尖ってないので他人を傷つけるつもりは皆無だ。そんなに激烈な表現も使ってないと思っている。しかし論拠を十分にして論を展開すると知らないところで誰かを傷つけている。

思想を志す者同士仲良くなると忖度が生じる。逆に仲が悪すぎるのもよくない。誹謗中傷合戦になる。どっちも生産的ではない。

もっともいいのは「少しだけ仲が悪い」状態だ。そのような状態の時は互いに理性的に批判しあえる。実際「少しだけ仲の悪い人」は私が間違えたら忖度せずに理性的に批判してくれる。仲がいいと忖度が働く。仲が悪すぎると理性的な批判ではなく感情的な誹謗中傷になる。

「少しだけ仲の悪い」状態なら相手が面白いことを言ったら素直に共感できる。間違えたら素直に批判できる。それは恐らく「少しだけ仲の悪い」状態が本来の状態だからだと思う。思想家はそれぞれ価値観にこだわりがある。互いに簡単に理解しあえるものでもない。

「無為自然とは中庸だ」と言った人がいるが、「少しだけ仲の悪い」状態が恐らく中庸であり、この中庸をとると自然と関係はうまく行くのかもしれない。正しい中庸のとり方が分かると「思わずして当たり従容として道に適う」となるのかもしれない。そこまではなかなか到達できないが。

ただ無論思想の友達をつくることで得ること学ぶこともある。なかなか難しい。結局コミュニケーション能力の問題かもしれない。私のコミュ力が足りないのか。

思想の友達はいつかはつくりたいと思うが、むこう2,3年はつくらないでおこうと思っている。

twitterなどで色んな人の意見はこれからももちろん積極的に聞くけれど、現在のところはひとり自分の思想を磨こうと思う。


■上部の画像はガウディ

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作成日:2022/1/13