新しい伝統

岡本太郎は日本人はこれからは日本の伝統と西洋の伝統の両方を受け継がなくてはいけないと言う。 それは可能だろうか。

一部の理解力のある人を除いて多くの日本人、9割くらいの日本人は、 ヨーロッパの文化から深いインスピレーションを得るのは難しい。 現代日本人は表面だけ西洋化されているため、ヨーロッパの文化に触れるときも表面だけを吸収する。

日本人は表面以外は伝統的日本人であり東洋人である。深いところは昔の日本人、東洋人なのだ。 だから深いインスピレーションを得ようと思うなら日本の伝統、東洋の伝統から学ぶとうまくいく場合がある。

新しくかつ深いものを創ろうと思ったら、ひとつの可能性としては深いインスピレーションを日本や東洋の伝統から得て、 西洋から得た技術をたとえそれが表面的であっても用い、 東洋の伝統と西洋の技術を合成して新しいものを創る。 もちろんそれが正解とは限らない。人それぞれ自分が信じる道を歩むべきである。 しかし岡本太郎や特に武満徹などは基本的にこの方法によっている。 もっとも彼らは西洋文化を深く理解したであろうが。

京都大学がノーベル賞が多いのも京都という本格的な文化を保持している場所にあるため、 深いインスピレーションを得やすいからであろう。 そして京都の文化から得たインスピレーションと西洋の学問とを合成して良質な研究ができるのではないかと思う。

京都だけではなく奈良にも日本の本格的な文化はある。 現在残っている文化財は京都ほど華やかではないが、京都に劣らぬ本格文化なのは間違いない。 インスピレーションの宝庫である。 奈良大学にもし優秀な生徒や研究者が集まれば、いい業績が上がるのではないかと個人的には思っている。 奈良大学の偏差値をネットで検索してみた。非常に低い・・・。私の地元の佐賀大学より低いではないか・・・。 偏差値だけでは決められないのは当然だが、優秀な学生は来ないのだろうか。 学部も理系がない。古い文化からインスピレーションを得て、新しい理系の研究を行うといい研究ができるだろうに、惜しい・・と思ってしまう。 京都大学に手が届かないが優秀だという人は奈良大学に行ったらどうだろうか。

インスピレーションの問題は恐らく現代日本のすべての分野において問題になっていると思う。 皆さんも心当たりあるだろう。 西洋文化を吸収するが、なかなか深く新しいものが生み出せない。表面的な吸収だからである。 真に生きていないからである。 西洋に比べて、知識の量が少ないとか、技術が足りないとか、思考能力が劣っているとか、アイデアが足りないとかは、恐らくそれほどでもない。 一番の違いはインスピレーションの深さである。 心当たりのある人も多いだろう。

私も大学時代思想を学んだが、西洋思想を本当の意味で深く理解するのは私には難しいと感じた。 表面的な理解にとどまった。大学中退後、中国思想を独学で学ぶようになったが、 これはある程度深い意味を理解できると感じた。 武満徹の方法をとるならば、ある程度深く理解できた中国思想と表面的に理解できた西洋思想を合成して、 ちょっとした新しい東洋思想を創るという方法があるかもしれない。 私に可能とは思えないが。

大前研一はこれからは「合成力」を持った人間が重要になると言っていた。 武満徹や岡本太郎はこの「合成力」があった人物なのだろう。 正しく「合成」ができない人が強引に合成しようとすると、竹に木を継いだようになる。 私に正しい「合成」ができるかわからないが、自分なりに模索していきたいとは思う。 普通の人間でも少しは役に立つかもしれない。

この問題は日本だけの問題ではない。アジア全体で共有される問題である。 近代以降の西洋の思想や技術をどう取り入れるか、東洋の伝統をどうやって保持し活用していくか、 アジア全体で突き付けられている問題である。 中国や韓国のように同じ漢字文化圏の国はもちろんであるが、インドも同様だし、 実はイスラム諸国も同様である。

日本は19世紀後半から西洋化が開始された。表面的には成功したが、しかし日本は貴重な伝統の半分ほどを失った。 表面的には成功したと言えるが、深い面では失敗したと言えるかもしれない。 夏目漱石はこの深い意味での失敗を明治の段階であらかじめ予知していた。 「日本はこれから一歩一歩後退していくしかない」と述べている。

イスラム諸国は伝統を失うという失敗を強烈に恐れているのである。 言ってみれば日本のような失敗をしたくないのだ。 暴力に訴えてテロという手段を用いてまで伝統を守ろうとしている。 伝統を守るのは大切だが、暴力に訴えるのは間違えていると私は考える。

いずれにしても西洋化した日本と西洋化を拒むイスラムは別の道を歩んでいるが、 共有している問題は同じなのである。 同じ問題を抱えており、ただそれに対処するための回答と行動が相違しているだけなのだ。

日本人はイスラムのテロと日本の問題は全く関係ないと考えがちである。 表面的に見ると関係ないが、深く問題を捉えると実は共通している。 日本の問題を正しく解決することは実はアジア全体の問題を解決することにつながる。

日本はアジアの国の中で一番最初に西洋化した国であるため、 アジアの国が西洋化する際の良い効果と弊害の両方が一番蓄積している国である。 日本の問題の解決を模索する中で、アジア・アフリカ全体の問題の解決に、 正しいヒントが見つかるのかもしれない。

要は3つのタイプの人々が必要だ。

ひとつ目が伝承者。 過去の偉大な天才たちの業績を後世に伝える人。 後世の人々が過去の天才から学べるように、伝統を保持する人々である。伝統に忠実な人である。 この人々がいないと過去の天才の遺産は永久に失われ、未来の人々はその遺産に触れられなくなる。

もうひとつが先駆者。 全く新しい文化を一から作る人々。 こういう人は伝統などどうでも良いと考える。そして新しいものを作る。

そして最後が創造者。 こういう人は、伝統継承者を通じて過去の偉大な文化からインスピレーションを受ける。 伝統からインスピレーションは受けるが、伝統に拘束されず自由である。 そして先駆者が開拓した新しい手法を採用する。 そして新しく、かつ偉大な文化を創る。新しい伝統を創造する。 日本でいえば岡本太郎や武満徹である。

伝承者は創造者に過去の遺産を教える。先駆者は創造者に新しい手法を教える。 創造者は過去の天才からインスピレーションを得ているため、 過去の天才と同じレベルのものが創れる。 新しい手法を採用しているから新しい文化、新しい伝統が創れる。

西洋ではヨーロッパが伝承者であり、先駆者がアメリカである。 創造者は両方にいるが、アメリカのほうが現在は多いのかもしれない。

よく伝統は大切だ、伝統はいらない、と論争になる。 結論から言うと伝統は大切なのだが、伝統は大切だという伝承者と、 伝統はいらないという先駆者は、実はどちらも非常に重要なのである。

本論では伝統の重要さを指摘したので、伝統を軽んじる先駆者は必要ないと思われてしまう可能性があるが、 「伝統などどうでもいいんだ。」という先駆者は実は非常に大切である。 彼らが確かに新しい時代を築く側面もあるのだ。


■上部の画像は韓国の殊眼禅師の書。

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