多様と統一

最近歴史を読んでいる。最終的には思想を読むのが目的なのだが、思想は歴史と言語のうえにのっている。歴史と外国語を学ばないと思想は本当のところはわからないと思っている。思想を学ぶ準備として歴史を学んでいく。

すぐれた思想は普遍的だが、しかし同時にローカルな側面もある。だからローカルな要素である歴史と言語を学ばないといけない。歴史と言語を学んではじめて思想は地に足がつく。

歴史を読んでいて思うのは、国際的にはもちろん、ひとつの国やひとつの集団の内部でも、いろいろな思想やいろいろな利害を持つ個人や党派がある。そして多くの場合、彼らは互いに対立しあい、潰しあう。同じ目標に向かって進んでいたのに、利害や思想の対立で分裂し目標を達成できないということがしばしばある。現代でもそういうことはあるだろう。

分裂が悪いというのではない。ビートルズの解散はそれぞれのメンバーが個性を発揮するために必要だっただろうし、もともとひとつの統一体であった中国思想が、春秋戦国期に儒家、道家、法家などに分かれたのも必要だった。それは発展であり良い意味での分化だった。西洋で学問や芸術がキリスト教と言う宗教から独立したのはまぎれもなく発展である。しかし歴史を読むと、分裂によりひとつの運動が致命傷を受けるということはしばしばある。悪い意味での分裂だ。

しかしいろいろな思想や利害の違いはあるけれど、時にそれらを超える大きな大義によって人々が結びつくときがある。そのようなときに時代は正しくそして大きく動く。それがないと仮に一時的に成功しても収奪品をめぐって仲間割れを始めたりする。多様な人々を正しくつなぐのは真理であり大義である。人々をつなぐ強さは真理の深さであり大義の深さである。

ここで重要なのは思想や利害の違いを乗り越えるために違いを強引に消してはいけないという点だ。違う立場、多様性は保持する。しかし本当に深い真理や共通の大義があれば、それぞれの立場から意見が戦わされて、さらに優れた真理と大義が形成される。不毛な対立が生産的な対話に変わる。

図で示す。

ある国や集団の中で多様性がないのが左下のOR型。統一されているという長所があるが、その反面画一的である。逆に多様に過ぎるのが右下のOR型。多様性という長所があるが、その反面分裂するという短所がある。この場合に関してはOR型はどちらもよくない。

『ヴァルキリーエリュシオン』というゲームに次の言葉がある。

みんな同じって怖い。
みんな違うってもっと怖い。

ゲームの中で世界が崩壊し、亡くなった人の思念が語った言葉である。みな違うことで人々が滅ぼしあったのだと思われる。皆同じであるのも怖い。昭和初期の日本の軍国主義はみな同じだったため国が滅んだ。しかしみな違うのも相互に滅ぼしあう。歴史を見るとその例は大量にある。引用したこの言葉は画一的であるのも分裂するのもどちらも良くないと述べている。

多様性を強引に消してバランスをとろうとするのもこの場合恐らく良くない。バランス型中庸である。それより多様性を生かしながら、深い真理と共通の大義を補うことで、多様性を保ちながら統一性をつくり、ハーモニー型中庸を目指すべきと思われる。多様かつ統一である。

例えば坂本龍馬と勝海舟は幕末において愛国心と日本の独立という大義によって国をまとめた。過去の経緯から対立しあう薩摩と長州を坂本龍馬が同盟させ、勝海舟と西郷との会談で、薩長と幕府は本格的な戦いをせず、江戸は無血開城した。日本人同士が争わなかったことにより、外国の介入は未然に防がれた。それが日本が独立を保てた所以である。

イスラム教の預言者ムハンマドが出現する前のアラビア半島は部族社会だった。イランにはササン朝ペルシャという先進国があり、シリア、エジプトは東ローマ、ビザンツ帝国の支配下だった。しかしアラビア半島はササン朝もビザンツ帝国も手を出さず、昔ながらの部族社会だった。しかしムハンマドが宗教を創始すると、変化が生じた。イスラム教と言う深い真理の力で、部族を超える団結が生じたのだ。もっとも部族よりもアッラーを信じる思想は守旧派に激しく弾圧されることにはなるのだが。部族という強烈な結びつきと部族同士の分断を超える思想としてイスラム教は登場したのである。深い真理があれば人々は正しく結びつくというのがよく分かる。

日本はもともと画一的だった。戦前は国のためという大義で画一的だったし、戦後最近までは同じテレビを見ることで統一性が保たれていた。しかし若い人たちがテレビを見なくなったとこで、日本は多様化してきている。youtubeのチャンネルは大量にあるし、アニメなどのコンテンツも大量にある。日本人同士でも初対面の人が話すとき、共通する話題は恐らく急激に減っていると思われる。

秋元康氏が10年ほど前、「今までは国民の最大公約数的なものが売れていたが、これからは同じ趣味で集まったそれぞれのコミュニティの最小公倍数的なものが売れるようになる」と言っていた。その通りになっている。

恐らく現代の若い人たちとおじいちゃん世代では話がそもそも通じないのではないか。技術や社会の変化がこれだけ速いと世代間の違いは非常に大きくなる。多様と統一のバランスと言う面では恐らく現在が一番ちょうどいい。しかしさらに多様化が進む可能性はある。youtubeとかを見ていても世代間の対立は不毛な対立になっている気がする。

世代の違いがあることは良いことである。各世代はそれぞれ違う側面から同じ真理を見ている。それぞれの世代の違いがあるからいろいろな角度から真理を見ることができる。世代の間の生産的対話が可能であれば、違いがあるからこそ真理は深まっていく。ひとつの世代の見地だけから時代を判断するのは視野が狭くなる。

しかし世代の対立を生産的対話に変えるのは容易ではない。恐らく世代を超える深い真理と共通の大義が現代日本に復活する必要がある。イスラムと言う深い真理が生れたことで、アラビア半島の部族の分断が乗り越えられたように、日本の独立と言う共通の大義によって、幕末において日本が団結したように、現代日本にも深い真理と共通の大義が復活すれば、世代間の不毛な対立は生産的対話に変わるだろう。

深い真理は世界のいろんな古典思想、とくに中国思想、仏教を現代的にとらえなおし、西洋思想を消化することで得られる。そしてそれを応用して経済復興という共通の大義が得られる。

現代的で普遍的な深い真理と経済復興という共通の大義があれば、あるていど放っておいても世代間の生産的対話が自然と生じるはずだ。老子の「無為自然」「何もしなくても自然とうまくいく」ではないが、深い真理が得られれば真理の持つ「自然な力」が作用する。

この「自然な力」を活用するにはコツがある。「自然な力に任せるようで任せない、任せないようで任せる」と言う点だ。松下幸之助が部下に仕事を任せるときは「任せるようで任せない、任せないようで任せる」ようにしたという。任せるのだがどこかで常に気にしておいて、うまくいっているか時々確認するのだという。経済学で重要な成果はふたつだけだと言っていた人がいた。経済は基本的に放っておくのがよい、と言うのがひとつ。もうひとつは経済はたまに人の手で介入したほうがいい、と言う点。ひとつ目はアダムスミスの自由放任であり、もうひとつはケインズの理論だ。これも「自然な力に任せるようで任せない、任せないようで任せる」ということだと思う。

いずれにしても歴史において大きな仕事をした時代というのは真理の持つ自然な力をうまく活用できた時代である。意図的にか知らず知らずのうちにかは両方ありうるが、少なくとも真理の力を活用せずに大きな仕事をすることはあり得ない。

多様がいいとか統一がいいというのはどちらか単純には決められない。画一的すぎる社会が真理により多様化していくのは発展である。西洋近代に宗教から学問や芸術が独立したのはそれにあたる。逆に多様化しすぎて分裂した社会が、真理の力により統一していくのも発展である。時代は振り子のように多様と統一の中庸を中心としながら右に左に揺れて発展していく。

現在は文章は書いていない時期だが、時々単発的な文章は書こうと思う。今回はここまでです。

■作成日:2023年12月11日


■上部の画像は葛飾北斎

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