サブカルチャーに芸術性を補う人たち

現代の最先端の前衛芸術はきわめて抽象的であり知的であり、感情が切り捨てられている。私もジョン・ケージのCDを持っている。聴いてみるとたしかにすぐれた音楽だと思うが、何度も聞きなおしたいとは決して思わない。感心はするが感動はしない。完全にただの知的遊戯になっている。ほとんどの人は同じように思うだろう。

30年ほど前、ある日本人の現代音楽評論家が次のように述べていた。「現代音楽は、知的であり感情がない。それを嫌う人もいるだろう。しかし世界は確実に「酔う時代」から「覚める時代」に移り変わっていく。それが嫌だという人もいるが、嫌だろうが何だろうが、時代は「覚める時代」移り変わっていくのだ。」と言っていた。

確かに人類の歴史は、近代が始まって以来およそ500年間、合理性が非合理性を駆逐し、理性が感情を追い出し、科学の知識体系が宗教的知識体系を崩してきた。

30年前であれば、先ほどの現代音楽研究者の言葉はある意味正しかったのかもしれない。少なくとも時代の潮流にのっていた発言なのかもしれない。しかし複雑系科学の勃興により、科学主義の限界が見えてきている。宗教が新たな形で復興する可能性がある。「酔う時代から覚める時代へ」という理念は時代遅れになりつつある。

恐らく未来は「科学と宗教の整合」「合理性と非合理性のバランス」「理性と感情の調和」というのが正しいあり方になるはずである。芸術も「知性と感情の調和のとれた芸術」というのが「正しい時代の流れ」になるはずである。

では具体的にはどのような芸術が「正しい時代の流れ」にのった芸術なのだろうか。20世紀初頭、音楽が抽象に傾いていくなか、違う方向を向いた独創的な音楽家がいた。ガーシュウィンである。彼はポピュラー音楽とクラシック音楽が融合したような音楽を創った。単に抽象的な音楽ではなく、感情的にも豊かなバランスのとれた音楽である。

歴史を読むと、ある偉大な芸術家が庶民の娯楽を芸術に高めた例は多い。能などもその一例である。

ガーシュウィンも当時のアメリカのポピュラー音楽を芸術に高めた。当時のポピュラー音楽を知っている人たちは「あの音楽を芸術にしたのか」と思うが、恐らく当時のポピュラー音楽を知らなかったであろうラヴェルやシェーンベルクなどのヨーロッパの音楽家たちは、「とほうもなく独創的な音楽家が現れた」と驚愕しただろう。

ガーシュウィンのように庶民の文化を芸術に高めた人たちは昔から存在する。創造の際、彼らの精神のうちで何が生じているかを推測したい。

ゲーテ『格言と反省』に次の言葉がある。

芸術そのものは本来気高い。それゆえ、芸術家は俗なものを恐れない。否、それどころか、芸術家が俗なものを取り上げると、それは立ち所に上品にされる。こうしてわれわれは最大の芸術家たちが大胆にその至上権を行使しているのを見る。

「芸術家は俗なものを恐れない」とゲーテは言う。芸術家は恐れずに庶民の娯楽に触れる。「芸術家が俗なものを取り上げると、それは立ち所に上品にされる」とも言う。芸術家は庶民の娯楽に芸術性を補うため、芸術家が取り上げると、娯楽は芸術になる。

ガーシュウィンはおそらくポピュラー音楽に芸術性を見ていた。それが正しくないとすると、少なくとも芸術性があるかのように聴こえていた。もっと正確に言うと、芸術性をその精神のうちで補完しながら聴いていた。そして「こうしたらもっとポピュラー音楽のよさが引き立ち伝わりやすくなる」と考えて、芸術的な表現を与えた。すると他の人たちも「ガーシュウィンがポピュラー音楽を聴いていた時に聴こえていた芸術性」を理解できるようになるのである。

庶民的な娯楽に良さを見いだす→芸術性を補完する→他の人にもわかるように表現しなおす、という三段階があるはずである。

ゲーテ『格言と反省』からさらに引用する。

ありふれたものから、気高いものを、形をなさないものから、美しいものを展開させることは、決して小さいことではない。

ありふれた庶民の娯楽から気高い芸術を展開できると述べている。

エリック・ホッファー『人間の条件について』から引用する。

名もない先例がどれだけ創造的爆発の引き金になってきたか、活動、思考、想像の領域においてどれほど新しい様式の種子となってきたかはとても語りつくせない。二流の詩人、二流の作曲家、平凡な著述家や画家、教師、才能のない職人は、芸術、文学、技術、科学、政治の重要な発展の種子となってきた。歴史を形作ってきた人びとの大半は、無名の誰も訪れない墓に眠っている。
才能のない者たちが、自分たちより優れた事物を生み出す媒介者となりうるということこそ、創造的な環境の指標である。

庶民の娯楽をつくる二流の人たちが新しい先例をつくる。それを一流の芸術家がとらえて芸術に高める例が非常に多いとエリック・ホッファーは述べている。私は庶民の娯楽を創る人たちが二流だとは必ずしも思わないが、エリック・ホッファーの言葉は真理のひとつの側面を言い表している。さらに引用する。

真の創造者が模倣するとき、手本はそれ自体、粗末な模倣品になってしまう。

芸術家が庶民の娯楽を模倣すると、手本であったはずの娯楽品のほうが、芸術品に対する模倣品になってしまう。

芸術家は庶民の娯楽に芸術性を補う。しかし芸術家とて万能ではない。補えるのは自身が所属する文化の娯楽に多くの場合限られる。他の文化のサブカルチャーに芸術性を補うことは基本的にはできない。現代日本の芸術家であれば、現代日本のサブカルチャーに対してしか芸術性を補えないはずである。ガーシュウィンも基本的にはアメリカのポピュラー音楽に芸術性を補ったのである。隣国キューバの音楽から『キューバ序曲』という音楽をつくったのはさすがというべきだろう。

ゲーテ『親和力』から引用する。

われわれは芸術によって最も確実に俗世間を避けることができる。同時に芸術によって最も確実に俗世間と結びつくことができる。

我々は俗世間の喧騒を芸術に触れることで確実に避けることができる。そして例えばガーシュウィンのように俗なものを芸術に高めることで、俗世間と正しく結びつくことができる。

ゴッホに次の言葉がある。

うつくしい風景を探すのではなく、風景の中にうつくしさを見いだせ。

ゴッホは風景に関して述べているが、文化に触れるときも同じだろう。うつくしい作品を探すことも重要だが、ありふれた作品にうつくしさを見いだすことも、同じように重要である。

うつくしい作品を探す人は芸術愛好家であり、ありふれた作品にうつくしさを見いだし、補い、表現しなおす人は芸術家である。見いだし補えるが、表現できない人は芸術家予備軍である。一生予備軍で終わる人もいる。

『論語』顔淵篇に次の言葉がある。

書下し文
君子は人の美をなす。人の悪をなさず。

現代語訳
君子は他人の良さが成立するようにし、他人の悪い面が成立しないようにする。

人だけではない。文化的作品も同じだ。ガーシュウィンのようにサブカルチャーに芸術性を補う人は、サブカルチャーの良さが成立するようにしていて、その悪い面が成立しないようにしている。

日本料理で昆布のだしがおいしい時、我々は「この昆布おいしいなあ!」と言う。しかし海に生えている昆布をかじっても決しておいしくない。おいしいのは料理人が、昆布のおいしさを引き出しているからである。昆布の良さが成立するようにしているからである。

■2025年5月12日追記。

日本料理は素材の味を活かすのがうまい。であるから日本人は本来、物事の良さを成立させるのがうまくてもおかしくないと思うが、どういうわけか料理以外ではあまりうまくできないようである。

■追記終。

『法華経』法師功徳品に次の記述がある。修行者が悟りに近づいていくときに生じる現象を記している。

千二百の舌の美点を具える味覚を得るであろう。彼はこのような味覚により、あれこれの味を味わい、あれこれの味を味覚に委ねるときに、それらすべての味は素晴らしい天上の風味を生じさせるであろう。そして、如何なるものでも、味わうて不味くはなく、美味であるように、味わうのである。味のまずいものも、彼の味覚に委ねられると、素晴らしい天上の風味を生ずる。

仏教の修行者が、悟りに近づくにつれどのような体験をするかの一例が書かれている。悟りに近づくと、優れた料理のおいしさを理解できるようになる。高級フレンチや高級中華料理を理解できるようになるだろう。しかしそれだけではなく、普通の料理にもおいしさを見いだせるようになる。おそらくその両方が生じる。「味のまずいものも、彼の味覚に委ねられると、素晴らしい天上の風味を生ずる」とさえ述べている。

『法華経』の述べるところとは少し違うかもしれないが、例を挙げて解説する。2ケで200円の普通のスーパーにおいてある平凡なさくら餅と高級和菓子店の1ケで500円の高級さくら餅があるとする。グルメな人は高級さくら餅のほうがおいしいと思う。しかし例えば日本の歴史を知り、日本の文化に精通し、日本各地の旧跡を旅行し、日本の歴史と文化がそのうちに蓄積されている人が食べれば、普通のさくら餅でも十分深く日本文化を味わえる。普通のさくら餅でもその人の日本の歴史と文化に関する知識や体験の蓄積と共鳴し、非常においしく味わえるのである。ただもっとも、高級さくら餅であれば普通のさくら餅以上に深く味わえるのは、当然ではある。

■2025年5月16日追記。

悟りに近づく人が普通の料理にも「天上の風味」を感じるように、芸術家がポピュラーソングを聴くと、そこに天上の音楽を感じるというのはありうるかもしれない。

現代日本の芸術愛好家は芸術と言えば海外の芸術であり、もしくは昔の日本の芸術である。現代日本には芸術がないと嘆く人もいる。損な時代に生まれたというわけである。しかし現代日本でも、芸術愛好家ではなく芸術家であれば、いたるところに現代芸術を感じ取るのかもしれない。

■追記終。

現代の前衛芸術はどうあるべきかのわたしなりの答えは、ひとつはサブカルチャーに芸術性を補うということである。あくまでたくさんある選択肢のひとつということになるが。

ガーシュウィンがシェーンベルクに正統なクラシック音楽の理論を教えてくれ、と頼んだ時に、シェーンベルクは、クラシック音楽をしながらどうしてそんなにお金を稼げるのか教えてくれ、と逆に質問をしたという。ガーシュウィンは「サブカルチャーに芸術性を補うのだ。そうすればお金も稼げる。」と返答すべきだったのかもしれない。

私の目標は現代日本に思想的真理を補うことである。ガーシュウィンがポピュラーソングに芸術性を補ったように、現代日本に思想的真理を補うことが目標となる。ガーシュウィンの行ったことは私にとっては見習うべき手本のひとつである。

■作成日:2025年4月29日。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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