任せるようで任せない。任せないようで任せる。

「任せるようで任せない。任せないようで任せる。」と言う話を前々回した。以下コピペ。

松下幸之助が部下に仕事を任せるときは「任せるようで任せない、任せないようで任せる」ようにしたという。任せるのだがどこかで常に気にしておいて、うまくいっているか時々確認するのだという。経済学で重要な成果はふたつだけだと言っていた人がいた。経済は基本的に放っておくのがよい、と言うのがひとつ。もうひとつは経済はたまに人の手で介入したほうがいい、と言う点。ひとつ目はアダムスミスの自由放任であり、もうひとつはケインズの理論だ。これも「自然な力に任せるようで任せない、任せないようで任せる」ということだと思う。

以上コピペ。

これはバランス型中庸である。任せすぎて自由が行き過ぎると放恣になる。しかし任せなさ過ぎて管理を徹底すると圧制になる。ちょうどいいバランスをとるとうまくいくという。「任せるようで任せない、任せないようで任せる」と言うわけだ。これは結構いろんなところで使える考え方かもしれない。

松下幸之助の『一日一話』から引用する。

自由と言う姿は人間の本性に適った好ましい姿で、自由の程度が高ければ高いほど、生活の向上が生み出されると言えましょう。しかし、自由の反面には、必ず秩序がなければならない。秩序の無い自由は、単なる放恣に過ぎず、社会生活の真の向上は望めないでしょう。
民主主義のもとにあっては、この自由と秩序が必ず求められ、しかも両者が日を追って高まっていくところに、進歩発展というものがあるのだと思います。そして、この自由と秩序と一見相反するような姿は、実は各人の自主性において統一されるもので、自主的な態度こそが、自由を放恣から守り、無秩序を秩序にかえる根本的な力になるのだと思います。

個々人の規律と責任ある本当の意味での正しい自主性があると自由と秩序が両立するという。これはハーモニー型中庸に近い。自由があるからこそ正しい秩序が生まれ、正しい秩序があるからこそ自由が保てる。

しかしハーモニー型中庸は簡単ではない。ただ松下幸之助は経営者らしく実現可能な範囲で現実的な話をしている。そのへんのバランス感覚はさすがである。

しかし実現不可能なことを推奨する人もいる。老子だ。『老子』第二十七章に次の言葉がある。

書下し文  
善く結ぶ者は縄約なくして解くべからず。

現代語訳  
すぐれた結び方をする者は縄を用いないが、誰もそれをほどくことができない。

すぐれた人は他人を束縛しない。老子の言葉で言えば「縄を用いない」のである。しかし人々はその優れた人の考えた通りに動いていく。「誰もそれをほどくことができない」のだ。命令もせず誘導もせず忖度もさせず策も用いないのに人々はその聖人の思想の通りに動いていく。老子の言うことが実現できれば素晴らしいに違いない。しかしそれはおそらく無理である。ハーモニー型中庸のかなり極端な例だと言えよう。

『老子』第十七章に次の言葉がある。

書下し文  
太上は下これ有るを知るのみ

現代語訳  
最上の君主は人民はその存在を知るだけである。

老子的聖人は命令もしないのに世の中を正しく動かす。だから人々はその人の優れた点を理解せずその存在を知るだけだという。次の言葉もある。

書下し文  
功を為し事を遂げて百姓皆我自ら然りと謂う

現代語訳  
功績が上がり事業が完成して、人々はみな我々は自分で事業を完成させたのだと言う

やはり老子的聖人は人々を束縛しないのに人々の事業を正しく導くのである。だから人々は自分でそれを成し遂げたと考える。

第二十七章に次の言葉がある。

書下し文   
善く行く者は轍迹なし

現代語訳   
すぐれた行き方をする者は轍の跡を残さない

意訳     
優れた行動をするものはその仕事が歴史には残らない

すぐれた人は命令しないのでその仕事は歴史に残らない。そのような老子的理想を完全に実現した人は恐らくいない。しかし部分的にそれを実現した人はそれなりに多いと思う。歴史を読んでいて「この人は老子の影響受けたくさいな」と思う人を見かけることがある。ちゃんと検討していないので名前は出さない。『三国志』は検討したので言うが孔明と趙雲は若干その傾向がある。ただふたりとも聖人ではない。特に趙雲は一介の武人に過ぎない。しかし彼らの仕事は半分は歴史に残ってないと思われる。そういう人は歴史に形跡を残さない形で時代を正しく動かす。そういう人たちは確かに有名なのだがどんな仕事をしたのか残っていない。老子の言葉で言うと人々は「その存在を知るだけ」であり、「轍の跡を残さない」のである。しかし少し笑えるのが、そういう人は晩年になって「いかん。これだと本当に名前が残らないぞ。」と気づいて急に焦り出すパターンがある。そして晩年になって自分の功績を急に吹聴しだしたりする。もちろん孔明と趙雲はそんなことない。

ハーモニー型中庸をとるのはどんな場合でも困難である。しかし目指すべき時もある。目指さないほうがいい時もある。目指すべきか目指すべきでないかは、その時々の状況やその人の力量などによる。ケースバイケースとしか言えない。思想家は原則を抽象的に語るが、その原則を個々の場面に適用すべきかどうかは、その当事者が具体的状況を見て判断すべきことである。自由と秩序の中庸に関しては老子より松下幸之助が断然お勧めである。

■作成日:2023年12月29日


■上部の画像は葛飾北斎

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