私が「自分らしさ」を失った瞬間

二十歳の時に西洋哲学の勉強会に参加した。その勉強会で私とほぼ同い年のA君が参加していた。顔は覚えているが名前は憶えていない。勉強会ではひとりずつ発表をし皆で議論するというスタイルだった。私も発表をした。そしてA君も発表をした。私はA君の発表と発言を聞いて衝撃を受けた。「こいつすっげーな。こういう人が哲学をするのか。」と強烈な印象を持った。正直に言うと私はあまり西洋哲学に向いていない。

他人から強烈な印象を受けることはいい意味で自分の人生を変える。しかし行き過ぎると悪い意味で自分の個性を失う危険性がある。実際その勉強会以後、私はあまりの衝撃にA君のスタイルを表面的に模倣するようになってしまった。

数か月後、別の勉強会でA君と再び会った。私の発表の時、私はA君のスタイルを表面的に模倣したようなつまらない内容を自信なく発表した。そしてA君の発表になった。その時のA君の発表を聞いて私は愕然とした。何とA君は前回の勉強会での私の発表を表面的に模倣した内容を発表し始めたからである。要は私は私でA君の発表に衝撃を受けてA君を模倣してしまっていたが、A君はA君で実は私の発表に強い印象を受けていて私の発表を模倣していたのだ。

私もA君もせっかくそれぞれに良い個性を持っていたのに、最初の勉強会での体験から、それぞれの個性を捨てて相手の真似をしてしまっていた。自分の個性を捨てた結果、その発表はつまらない内容になってしまっていたのだ。2回目の勉強会でのA君の発表を聞いて、私とA君がやっていることの間違いに私は気づいた。

人は誰しも自分のスタイルが確立した後はそういう間違いは起きなくなるが、自分のスタイルを模索している時期にはそういう間違いが起きてしまう。私もA君も若かったからだろう。他人に感銘を受けるのは、自分を成長させるチャンスでありながら自分を失うかもしれない危機でもあると思う。得てしてチャンスと危機は表裏一体なのである。

私やA君のような凡人同士であってもこのようなことは生じる。しかし天才が現れるとなお一層そのようなことが生じる。我々凡人は天才を目の当たりにすると自分の個性を捨てて天才を模倣してしまうからだ。天才は周りの個性を押し潰してしまう。ニーチェ『人間的、あまりに人間的』から引用する。

あらゆる偉大な天分は、多くの弱い方の力や芽を押し潰して、自分の周囲でいわば自然を荒廃させるような宿命的な性質をもっている。芸術の発展において最も幸福な場合とは、幾人かの天才が互いに制限しあう場合である。こういう闘いのさいは、通常弱い繊細なほうの天性にも空気や日光が恵まれるものである。

同時代に天才が5人現れたら、我々凡人はその5人のうちから自分の手本、師を選ぶことができる。凡人であっても少しだけ選択権を持てるのだ。その場合は凡人であっても自分の個性を押し潰されなくて済む可能性が高い。自分の個性と似た個性を持つ天才を手本に選べるからだ。

天才にあまりに近づきすぎると凡人は自分の個性を失ってしまう。天才の言葉をすべて正しいとし、自分の意見を押し殺してしまう。そして天才の真似をするようになる。これを天才との同一化という。河合隼雄『ユング心理学入門』から引用する。河合隼雄はユング派の心理学者。

ユング研究所留学中は、ユングの直接の弟子に接したので、ユングは今も生きているのかと思うほど、ユングという人の魅力について生き生きとした話を聞くことができた。ユングと同一化しているような人が多いなかで、私の分析家のマイヤー先生のみは、ユングとの適切な距離をもって語る感じがあって、うれしく思った。同一化がひどい人の話を聞くと、どうしても私の生来の懐疑僻が頭を持ち上げてくるのである。1962年にスイスに留学したのだが、ユング派その1年前に死亡し、私は直接会ったことはない。残念と言えば残念だが、これも運命というものだろう。
もしユングに直接会っていれば、あれほどの人物だから私も強い同一化の傾向を持ち、それ以後の私の人生の展開も少しは変わっていたことだろう。

ユング心理学の根本は「個性化」ということだから、ユングの言う通りに従おうとする人はユング派ではない、と言える。

「同一化がひどい人の話を聞くと、どうしても私の生来の懐疑僻が頭を持ち上げてくる」とある。同一化がひどい人はユングの言うことは一言一句なんでも正しいとする。ユングの言うことを理性的に分析せず完全に信じ込む。理性的に考える人は「本当にそうなの?」と懐疑僻が頭をもちあげてくるのだ。

同一化するのも一つの態度である。しかし同一化を防ぎ自分の個性を守るのであれば天才との間に適切な距離をとる必要がある。「私の分析家のマイヤー先生のみは、ユングとの適切な距離をもって語る感じがあって、うれしく思った。」とある通り、適切な距離を保てば自分の個性を保てる。「ユングに直接会っていれば、あれほどの人物だから私も強い同一化の傾向を持ち、それ以後の私の人生の展開も少しは変わっていたことだろう。」とある通り、河合隼雄ほどの人でもユングと直接会っていればユングとの間に適切な距離をとれずユングと同一化してしまった可能性がある。

「ユング心理学の根本は「個性化」ということだから、ユングの言う通りに従おうとする人はユング派ではない、と言える。」とあるのはユング心理学の根本は自分の個性を実現すること、つまり「個性化」である。個性はひとりひとり違う。ユングの個性とユングの弟子の個性は違う。だからユングの弟子はユングの言う通りにしてはいけないということになる。

twitterで優れた中国思想研究家に出会った。彼からは私は非常に重要なことを学んだ。しかし私は彼と儒教に対する態度で根本的に価値観が違うと感じた。私は儒教を学び儒教を尊敬するが儒教にとらわれる気はない。孔子と一定の距離を保つ。儒教の思想に対しても内容を理性的に検討して受け入れるべきものを受け入れるという態度。

しかし彼は孔子を信じていた。信奉していた。孔子の言うことは一言一句正しいと考える。「孔子に似たい」と言っていた。孔子と同一化しているのだ。儒教に「時中」という考えがある。「時に中す」と読む。「権」と言ってもいい。この考えによると孔子と私の個性は違うのであるから、私は孔子と全く同じことをしてはいけないと言う結論になる。ユングと河合隼雄の例と同じだ。儒教の思想に従うなら、孔子と同一化してはならないはずだ。そこが私と彼の価値観の根本的な違いだと思った。そこは最終的に互いに分かり合えないのだろうと思った。彼を批判したようだが、同一化するのもひとつの態度である。決して悪いわけではない。そしていずれにしても彼は優れた思想家である。私は彼を尊敬している。

アリストテレスがいなければ独創的な哲学者になれた人たちが、アリストテレスがいたせいで単なるアリストテレスの模倣者になってしまったと言われる。儒教は中国において多くの人々の思想を支配し、独創性の芽をつんでしまった。

過去の天才に同一化して天才の模倣者になるのもひとつの生き方だ。しかし私は過去の天才と距離を置いて自分の個性を保つ方を選びたい。過去の天才に対してだけではなく、現在の凡人同士であってもそのようなことは生じる。私は他人の模倣者にはならないようにしたい。


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■上部に掲載の画像は山下清「ほたる」。