ニーチェに次の言葉がある。
人が自分自身を容易に神だと思わないのは下半身に原因がある。
ニーチェほどの天才になると「自分は神だ」という考えが一瞬頭をよぎるのだろうか。しかし彼が最終的に首を縦に振らないのは、彼に性欲があるからである。性欲がある時点で彼もまた神ではなく地に繋がれた人間なのである。
イスラム教の開祖ムハンマドは神の言葉を話した。少なくとも信者たちはそう信じた。信者たちはムハンマドは神なのではないかと思い「あなたは神なのですか?」と訊ねた。ムハンマドはこう答えた。
私は飯を食べ、市場を歩く者だ。
神に言葉を託されたムハンマドですら食事をしないと生きていけない。その時点で彼もまた神ではなく地に繋がれた人間なのである。
■2024年12月6日追記。
パスカル『パンセ』に次の言葉がある。
人間はどれほど獣に近いことか。だが人間に、彼の偉大さを示すことなしに、そのことばかり見せつけるのは危険だ。そしてまた人間に、彼の卑しさを示さずに、偉大さばかり見せつけるのも危険だ。さらに危険なのは、偉大さと卑しさの双方を知らせずにおくことだ。しかし双方を眼前に描き出すのは、きわめて有用だ。
人間は、自分が獣に等しいとも天使に等しいとも信じてはならない。またその双方であることを知らないのもよくない。双方であることを知らなければならない。
パスカルは、人間が獣に近いことのみを見せつければ、人間は絶望してしまい、人間の偉大さのみを見せつければ、傲慢になってしまうという。その卑しさと偉大さの双方を提示すべきだという。
聖書の『創世記』によれば、人間は卑しさと偉大さの両方を持つように創造されたとある。
『創世記』第二章から引用する。聖書協会共同訳による。
神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。
人は土から創られた。土とは物質のことである。ヘブライ語で「人」は adam であり、「土」は adamah という。「人」はその名前自体に、土という意味、物質性という意味を持っている。人間は獣に近いから、ニーチェの言うように性欲があり、土、物質でできているから、ムハンマドの言うように食事が必要なのである。
しかし神は人間に偉大さを与えることを忘れなかった。同じく『創世記』第二章から引用する。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。
神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。
神は人を神の似姿に創造された。恐らく真・善・美を理解するように創造されたという意味であろう。神は人間に偉大さを与えた。
人間は卑しさと偉大さの両方を持つのであり、その両方を認識することが、パスカルの言う通り正しい中庸になるのだと思われる。
■追記終。
■上部の画像はガウディ
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作成日:2020/7/17