全ての道は神に通ず

作った造語を列挙する。

本当の哲学は言葉で語るものではない
本当の権力者は地位を持たない
本当の経済は金で計るものではない
本当の法律は条文で表さない
本当の絵は絵の具で描かない
本当の音楽は楽器で奏でない
本当のアルゴリズムはプログラム言語で記述しない
本当の映画はフィルムに収めない
本当のラブソングは歌手が歌わない

「言葉で語らない哲学」が哲学の本質で、「言葉」がその表現手段である。「金で計れない経済」が経済の本質であり、「金」はその計量手段である。要は上記の言葉たちは本質を重視して、手段を軽視した言葉なのである。何度も言うが本質は大事だが、本当は手段も大切である。根本と末節という概念で言うと、本質が根本であり、手段が末節だ。根本は重要だが、末節も大切である。

手段は分野によってさまざまである。言葉、地位、金、条文、絵の具、楽器、プログラム言語、フィルム、歌手。手段はさまざまで相互に全く似ていない。しかし本質はそれが本質的であればあるほど似てくる。子供たちが遊んでいる姿は生きた思想であり、言葉にならない哲学なのだが、それは金で計れない価値でもあり、鳥獣戯画のインスピレーションにもなる。絵の具で描かない絵といってもいい。同じインスピレーションが別の表現手段によって表現される可能性がある。

アインシュタインの言葉に次の言葉がある。

すべての宗教、芸術、科学は同じひとつの木の枝である。

宗教、芸術、科学は一見別の分野のようであるが、本質をさかのぼればもとは同じだと言う意味だ。

ある高い水準に達すると、科学と芸術は、美的にも形式的にも融合する傾向があります。 したがって超一流の科学者はつねに芸術家でもあります。

やはり科学と芸術は本質を捉える人から見ると似てくるというのだ。

『論語』為政篇に次の言葉がある。

現代語訳
孔子が仰った。君子は器ではない。

書下し文
子曰く、君子器ならず。

器は用途が決まっている。コップは飲み物をいれる。皿は料理を盛る。しかし君子は用途が決まっていないという。

該当箇所の解説として『論語集注』に次の記載がある

現代語訳
器はそれぞれ個別の用途にかなうけれど、色んな用途に相い通じて役に立つというわけではない。徳が完成している人は本質的なものが全うされている。だから具体的な働きもあまねく広く行きわたる。一つの才能、一つの能力だけしか働かせられないというわけではないのである。

書下し文
器は各々其の用に適えども、相い通ずること能わず。成徳の士は体、具わらざる無し。故に用、周からざる無し。ただ一才一芸を為すのみに非ざるなり。

君子は物事の本質を捉える。本質は違う分野にも相通じる。だからアインシュタインのように物事の本質を捉える人は分野にとらわれず、用途が決まっていないと言うのだ。いずれにしても各分野の本質をたどると分野の垣根は徐々に薄れていく。本質は相互に似てくる。

その本質をさらに本質へとさかのぼると一点に収束する。神である。神がいるとすればだが。神が存在するかどうかについての今現在の私の暫定的な考えとその根拠はそのうち書こうと思う。

本当の権力者は地位を持たないと述べたが、イエスやムハンマドは地位がなくても偉大で、本当の意味での権力を持つ。彼らは人間が到達しうる最高の境地であり、本当の正しい意味での権力者である。彼らの偉大さはその人格であるが、さらにその由来をたどると神に行きつく。イエスやムハンマドは神に選ばれたからこそ偉大なのであって、神に選ばれること以上に偉大な人間の美点などこの世に存在しないのである。権力の本質をたどると最終的に神に行きつく。

法についてはすでに述べた通りだ。岩波の『哲学思想事典』の「自然法」の項目に「トマスにおいて自然法 lex naturalis は、神の世界統治の理念である永遠法 lex aeterna が人間理性に刻印されたものであった」とある。これが仮に正しければ、実定法の本質は自然法に由来し、自然法は理性に由来し、理性は神に由来する、と解釈できなくもない。法の本質もやはり最終的には神に行きつく。本当に正しい法とは神の意思である。しかし実定法もそれが正しい法律であればその正しさは最終的に神に由来する。

経済も同じだ。経済の本質は金で計れない価値だが、その価値をつきつめると神に至る。神こそが最高の価値であり、全ての本当の意味で価値あるものの価値は神に由来するからだ。

「芸術は人間の芸術。自然は神の芸術。」という言葉がある。ダンテの言葉。絵の本質は絵の具で描かない絵である。それは一輪の花の美しさかもしれない。人間の美しさかもしれない。いずれにしてもその美は人間を含む自然に由来する。そして自然は神の芸術であるから最終的には神に由来する。井筒俊彦の『コーランを読む』から引用する。

絶世の美女がここにいる。ひとりの男が夢中になって恋し憧れている。つまり彼女の美しさを讃えている。だが、本当はその女性を讃えているのではない。美しいその女の人を通じて美そのものを讃えているのだ、というプラトニズム。ペルシアの文学によく出てくるテーマです。すべて世の中にある美、美しいもの、それが透き通しになって、その向こうに本当の、永遠の美のイデアが見えてくる。そして究極的には、この美の理念が神と一致してしまう。イスラーム的に言えば、すべての美しいものの奥底に神が見えてくるのです。美の権化であるような神の姿が。そういうふうにだんだん進んでいく。すべての部分的な相対的な美を通じて絶対的な美を観想するという『饗宴』篇のプラトニズムです。

美しいものは沢山あるが、それらの背後には美のイデアつまり美そのものがあり、最終的には神がある、というのである。
"al-hamd li-Allah"というコーランの一節を井筒俊彦は解説する。冒頭の"al"は定冠詞。英語の"the"に近い。こういうときアラビア語を初歩だけでもやっとくと頭に入りやすい。

al-hamd li-Allah
ハムドゥ hamd とは「称讃」ということ。Allahはもちろんアッラー。liは「・・のために」ということ。このような場合、アラビア語の文法の場合、英語のbe動詞に当たるものは必要とされません。これで完全な独立文です。全体で「讃えあれ、アッラーに」と訳します。『コーラン』の英訳などでもよく、Praise be to God.とかGod be praised.とか訳されています。「神は讃えられてあれ」ということです。私もそういう意味で、「讃えあれ、アッラー」と訳しました。口調がいいからそうしたのですけれど、厳密に言うと、この訳は文法的には正しくありません。この文の本当の文法的な意味は、「称讃というものは」"al-hamd"、「神のものである」"li-Allah"、ということです。称讃というのは神に属する、称讃は本来、神だけに属する、神だけのものだ、という意味の叙述文です。祈願文ではないのです。
それでは、こういうふうに正確に叙述文として理解した場合、この一句はどんな意味を表すのでしょうか。幾つかの違った意味に取れます。そのひとつは、真の正しい称讃はただ神だけのものだと言う意味。神だけ、神のみが真の称讃に値する、という主張です。普通、人間は何か気に入ったことがあると、すぐ「素晴らしい」とか「美しい」とか言って、褒め讃える。しかしそんなものは本当に褒めるに値するものではない、というのです。そうではなくて、神だけが称讃に値する。本当の称讃 ―定冠詞"al"がついているでしょう。"al-hamd"と。この場合定冠詞は「真の」「唯一の」という意味を表します― 本当の称讃は神だけに属する、つまり神だけが称讃に値する。 それがひとつの意味です。
もうひとつの意味は全ての称讃は神のものである、ということ。この場合の定冠詞は、およそ称讃なるものはすべて、ということです。人が何を現実に褒めようとも、それは実は神を褒めているのだ、という考えがそこにあります。例えば、一輪の花が咲いている、とても美しい、私はそれを褒める、ああ、きれいな花だなと褒める。私は花を褒めているつもりです。だけど『コーラン』に言わせればそうじゃないのです。私は自分では眼前に咲く花を褒めているつもりだけれども、本当は神を褒めている。一切の称讃は、つまり誰がどんなところで何を褒めようと、褒められているものは実際はアッラーなのだ、という意味です。宗教的になかなか深みのある意味ではありませんか。世界中のすべてのものが、それぞれに、それぞれの仕方で神を讃えていることになるわけですから。

画家が一輪の白椿を描いたとする。画家は白椿を褒め讃えているのだが、本当は気づかぬうちにその背後にある神を褒め讃えている。日本の民法の××条は非常によくできている、と民法学者が褒めるが、彼は自然法を褒めており、人間理性を褒めており、本当は最終的には神を褒めている。日本の民法の背後に自然法があり、その背後に理性があり、その背後に神がいる。日本の民法の××条はそれが正しい法律である限り、その正しさの分だけ神の法を反映しているからだ。

一点透視図法で絵の中の全てのものは目に見えない消失点に収束するように、全ての道は本質をたどると神に通じているのかもしれない。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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