本当の哲学は言葉で語るものではない

「本当の哲学は言葉で語るものではない」は私の造語である。

私は多くのものを思想として見る。一本の巨樹を見る時もそれを思想として見る。モーツァルトの音楽を聴くときもそれを思想として聴く。料理も思想として食べる。例えば経済学者であればすべてを経済として見るかもしれないし、詩人であれば恐らくすべてを詩として見るだろう。それと同じだ。

雨の後に一匹の大きな芋虫が身体を波打たせて這う姿も思想だし、海外旅行も海外の生きた思想を体験しに行く。工場製のパンを食べる時にもそこに思想を見る。そんなところには思想はない、浅薄だ、という人もいるかもしれないが、少なくとも浅薄な思想がそこにある。産業化され合理化された工業時代の思想が確かにある。それも現実のひとつだ。これらは全て言葉にならない思想である。

子供たちが集団で遊んでいる姿も思想だ。小学生くらいが一番面白い。運動場で何十人もの子供たちが遊んでいる姿はインスピレーションを与えてくれる。彼らはくったくがなく素直でまっすぐだ。体育の時間より昼休みに遊んでいる姿のほうが生き生きとしている。恐らく鳥獣戯画も子供が遊んでいる姿がインスピレーションになっているのではないかと思う。集団の力はすごいと思う。

集団の力といえばもうひとつインスピレーションを感じる事例がある。仕事するおっさんたちだ。私はたまに市議会とか県議会の見学に行く。50代60代のおっさんたちが一堂に会している。ひとりひとりのおっさんは日本を動かすほどの力は持っていないだろう。しかし40人50人集まるとオーラが半端ない。これだけのメンバーが集まり協力すると途方もない仕事ができるのではないかと思ってしまう。

24才のころ東京に住んでいて、京都旅行の帰りに新幹線に乗った。禁煙席があいておらず、仕方なく喫煙席に乗った。名古屋についた時に20人ほど背広を着たおっさんたちが乗ってきた。恐らく一流企業の重役たちだろう。すごいオーラだった。ひとりひとりはそんなに偉くないと思うが、集団の力はすごい。彼らのタバコの煙にすらオーラを感じた。しかも私のような当時の若造にも礼儀正しかった。若かった私は自然と頭が下がる思いがした。

『論語』述而篇に次の言葉がある。

書下し文
子温にして厲し。威ありて猛からず。恭にして安し。

現代語訳
孔子は温かさのうちに厳しさを備え、威厳があるが威張っておらず、慎み深いがゆったりとしている。

孔子は「温かさ」と「厳しさ」という一見矛盾するものをいい意味で兼ね備えている。「威厳があるけれど威張っていない」ともある。これをひとりの人間が備えるのは難しい。しかし働くおっさんが50人集まるとそれを簡単に実現できる。孔子には会えないけれど、市議会や県議会を見学すれば、「威厳があるけれど威張っていない」という「言葉にならない生きた思想」を体験できる。

私が人の集団からインスピレーションを感じるのは、遊んでいる子供たちと働いているおっさんたちだ。あとプロのスポーツ。サッカー観戦とか。ただしスポーツは近くで見ないといけない。あと観客の熱気もすごいなと思う。これらも言葉にならない哲学である。これが思想の本質であるはずだ。

『菜根譚』から引用する。

書下し文
人は有字の書を読むを解して、無字の書を読むを解せず。有弦の琴を弾ずるを知りて、無弦の琴を弾ずるを知らず。迹を以て用いて、神を以て用いず、何を以てか琴書の趣を得ん。

現代語訳
人は文字で表した書物を読むことを理解して、文字にならない書物を読むことを理解しない。弦の有る琴を弾くことを知って、弦の無い琴を弾くことを知らない。現象に囚らわれて本質を理解しない。どうして琴や書物の趣を理解し得ようか。

思想は表面的には言葉である。しかし思想を言葉とするのは表現に囚われ本質を見ない態度である。本質を捉えると無字の書が立ち現れてくる。だから「本当の哲学は言葉で語るものではない」という言葉が説得力を持つ。

「いや違うぞ。哲学は言葉で語らなくてはいけない。」という人もいるだろう。「本当の哲学は言葉で語るものではない、という言葉は危険思想だ」という人もいるかもしれない。全くその通りである。哲学的創造においても確かに最初に言葉にならないインスピレーションがある。しかしそれが哲学論文になるためには、そのインスピレーションのままではだめだ。インスピレーションはそれまで人類が築いてきた哲学の定石手筋、哲学の論理によって加工されることが必要である。それによってはじめてインスピレーションは合理的になり明晰になる。言葉で表現されて初めて他人も理解できる思想になる。

言語は思想を伝えるための完璧な表現手段では決してない。しかし世界や現象の背後に潜む合理的本質を表現するのにそれなりに適している。

「本当の哲学は言葉で語るものではない」という言葉は半分正しく半分間違えているのである。正しさが説得力を生む。そして間違えが刺激を生む。この言葉を完全に正しい言葉に言い換えてみる。

哲学は言葉で語る。しかし言葉にならない思想こそが哲学の本質である。

完全に正しい言葉にすると当り前の表現になったのが分かるだろう。モンテスキュー『法の精神』序文に次の言葉がある。

この本には今日の諸著作の特徴である警抜な表現は見いだされないであろう。いやしくも事物を一定の広がりにおいて見さえするならば、 警抜さは消え失せてしまうものである。警抜さというのは通常、精神が全く一方にだけ傾倒し、他方はすべて顧みないからこそ生まれるものなのである。

モンテスキューは奇抜さは偏りから生まれると言う。全体を見通せる人物の言葉からは奇抜さは消え失せるのだ。

『菜根譚』から引用する。

現代語訳
文章は最高の域に達すると珍しい表現があるのではなく自然な表現をするのみである。 人も最高の域に達すると特別に変わった点があるのではなく自然のままである。

書下し文
文章は極処に為し到れば、他の奇あることなく只だ是れ恰好のみ。人品は極処に為し到れば他の異あることなく、只だ是れ本然のみ。

儒教もモンテスキューと同様に「当り前」を重視する。それは儒教が正しいからである。

しかしこの儒教の「正しさ」には問題がある。儒教の正しさはそれが正しいゆえに人々を説得しあるいは人々に強制され、多くの個性を押し潰してきた。個性とは「偏り」に由来するからだ。偏りのない思想は偏った個性たちを押し潰す。偉大なものに接する時、人はそこから多くを学ぶが、同時に自分の個性を失ってしまうことがある。儒教は正しいがゆえに危険なのだ。偏っているのは間違いだ、と述べたようだが、逆に言うと偏っているから個性なのだ、と開き直ることもできる。

物事には陰と陽がある。儒教の「正しさ」という陽の中に「多くの個性を押し潰す」という陰がある。陽の裏に陰がはりついているのが分かるだろう。偉大なものに接する時、我々は少し用心したほうがいいのかもしれない。逆に「偏った個性が尊重される」という陰の裏に「多くの個性が花開く」という陽がはりついている。


■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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