2022年10月18日、ラストオブアス2をクリアした。この記事は掲載は10月27日だが、原稿はクリア直後に書いている。少しだけネタバレはある。8月中旬から9月中旬にかけてpart1をクリアした。9月中旬から10月18日まででpart2をクリア。ゲームは気晴らしのためにやるので1日1時間程度。
感想を言うと、重い。重い。重い。重い。重い。重たすぎるゲームだ。重いとは前から聞いていた。私は重たいストーリーでも大丈夫な方なので楽しめるだろうと思っていたが、その想像をはるかに超える重たさだった。part1からプレイしないとこのゲームは理解できない。しかし重たいのはpart2の方だ。
序盤の衝撃も重たい。そしてアビーと父親が何者かが分かった瞬間、ゲームが胃にもたれ始める。「ああ・・あいつらか・・!!」。あの病院がトラウマになる。そしてアビーが劇場に来た時点で地獄になる。最後の場面は心の中で泣きながらプレイした。「もうこれ以上するな!!もういいんだ!!もうやめておけ!!」と何度も叫んだ。
ゲームをプレイした人の感想を聞くとアビーには共感できなかったという人もいる。でもオレは共感した。だからあまりにもつらいのだ。
ゲームの質は優れている。ストーリーも会話も良くできているし、音楽も素晴らしい。だけど重たすぎるだろ!!限界というものがある。「おれにはFFVIIの重たさがちょうどいいんだ!!」と思いながら、途中でプレイ放棄しようかとも思った。でもストーリーが気になるので最後までプレイした。
プレイしてよかったかと言われればよかったと思う。しかし二度とはプレイしたくない。好きなゲームは何回かプレイして解釈を深めるのだが、このゲームはそれはしたくない。だから気の利いたコメントは一切できない。他の人の実況などは見てみる予定だが、自分でコントローラーを握りたくはない。もうこれ以上、□ボタンを押したくないのだ。このゲームから感じた衝撃が何だったのか、それを解明することなくこのゲームプレイは終わることになる。
このゲームは夢にまで出てきた。ちなみに私は夢判断が少しできる。フロイトの『夢判断』を途中まで読んだから。全部は読んでないので不完全ではある。夢判断のコツは夢全体をいきなり解釈しないことだ。まず部分に分ける。例えば自分で昼飯にパスタをつくって食べたらうまくなかったという夢を見たとする。いきなり全体を解釈せずに、パスタは何を表しているか、まずいという感覚は何を表しているかなど部分を分析する。そして最後に総合する。
ラストオブアス2に関する夢は次の内容。私が誰かと一緒にトラックに乗っている。運転席や助手席ではなく荷台。トラックはかなりのスピードでガタガタと音を立てて揺れながら走っている。気づくとそのもうひとりの人がトラックから落ちる。私は助けようとして手を伸ばすが、間に合わない。その人は道路に落ちてしまう。「うわぁー!!」と思って目が覚める。さっそく分析が始まる。
誰かがトラックから落ちるとはどういうことか。「昨日バスで停車駅を間違えて降りたのが関係あるかな?」と思う。正しければ「!」となる。しかしバスの件は「!」とならない。「・・・・」となる。これは違う。「あれかな?これかな?」と考えるがどれも違う。「ラストオブアスか?」と思い浮かべると「!」ときた。「あ・・これだ!!」と思う。
ラストオブアスは味方も死んでいく。トラックから落ちた人はラストオブアスの味方で助けようとしても助けられなかった人を表している。そしてガタガタとスピードを出して走るトラックは、ラストオブアスのゲーム展開が激しいことを表す。味方を助けられなかったことがトラウマになっている。
夢の中で見る内容は自分の思いが強いことを見ると思われているが実は少し違う。強い思いがあっても日中覚醒時にそれを十分消化できていれば夢に見ない。消化できなかったものが夢に出てくる。夢に出ることで消化される。
要はラストオブアスは私の中で少しトラウマになっているのだ!!ゲームプレイ中に消化できていない。「気晴らしのためにゲームやってるのにトラウマになるとはどういうことだ!!」と文句を言いたいがお門違いである。
好きなゲームでは決してないが、印象に残るゲームになった。制作者には敬意を表したい。
■2023年12月14~17日追記
ラストオブアス2の体験から1年が過ぎた。感想は書かないつもりだったが、1年越しに書いてみる。
人の人間性、能力、努力は本人のためにも社会のためにも役に立つ。人間性と能力を持ち、そのうえで努力することで、自己実現ができる。そしてそれが最終的に社会への貢献につながる。それは社会が正しい証拠だ。
しかしラスアス2の世界ではそうならない。ジョエルもエリーもアビーもすぐれた人間性があり、能力もあり、努力もする。しかし人間性があればあるほど、能力があればあるほど、努力をすればするほど、全体の歯車がかみ合わず、悲惨な極限状態へと彼女たちはなだれ込んでいく。ストーリーは個人の人間性、能力、努力の無力さをつきつけ続け、その無力さを確認するかのように進行していく。
完全な絶望ではない。その極限状態の中に人と人との大切なつながりや人間的美しさは間違いなくある。ギリギリ希望もある。ストーリーは希望を捨てろと言っているのではない。しかし彼女たちはその大きな力の前にはあまりにも無力である。無力さと希望。そのギリギリのところをこのストーリーは描いている。
ラスアス2はある意味世界の縮図かもしれない。世界の問題をかなりきつめに濃縮するとラスアス2の世界になる。エリーもアビーも大きな力の前には無力だった。現代の世界の「大きな力」は思想の矛盾である。世界の政治的事件はその具体的現れである。問題の根本的本質は思想の対立であり、問題の表面的現象は政治的事件である。イスラムと西洋の対立など多くの対立の根本には思想の問題がある。
西洋がその良心にもとづいて人権と民主主義を信じれば信じるほど、そして能力があればあるほど、そしてイスラムが正しい信仰を守るほど、そしてそのために努力すればするほど、問題はこじれていく。まるでエリーとアビーのようである。
日本人は、戦争に負けて、全員ではないがそのうちの何割かは、「大義なんて相対的だ。当てにならない。」と思って、幸せに暮らせれば十分と思っている。たしかに大義は相対的である。その気持ちはよく分かる。
戦前の大東亜共栄圏のような理念は日本人は本当には信じていなかったはずである。だから本当の生きた正しい大義ではなかった。天皇を神とする理念も普遍性があるとは個人的に思えない。では戦前には理念がなかったかと言うとそうでもない。「とりあえず西洋の文物や思想を取り入れ近代化し、同時に日本の伝統もそれなりに守る」というやや中途半端だが70点くらいの理念があった。アジア諸国の一部はそれを参考にして取り入れた。日本人自身はあまり自覚していなかったが、それなりの理念を体現していたのかもしれない。ルックイーストで有名なマハティール首相が「日本なかりせば・・」と述べたのは日本もそれなりに役割を果たしたということかもしれない。
大義を捨てても何も解決しない。戦争を反省して大義を捨てるのではなく、どうせ反省するなら正しい大義を模索するほうに努力するべきだ。昔のことはともかくこれからは日本の歴史に根差しながらも新しい普遍的な思想が必要である。世界のための思想は作れなくても日本を良くする思想をつくることは目指すべきだと思う。それが大義になる。それがないと自主的憲法もつくれない。単に日本の国会を通せば自主的憲法になるわけではないからだ。
話は戻る。ゲームの感想に正解などない。あるとすればそのプレーヤーがラスアス2を体験し、その人の中で化学反応が生じ、その後、結晶化した「何か」を表現することが正解と言える。ラスアス2をプレーし始めると自分の中で化学反応が生じはじめる。衝撃的な展開では強い反応が生じる。プレーし終えた後もしばらく化学反応は続く。しかし数週間たつと化学反応は次第に止まり、自分の中でラスアス2の体験が結晶化してくる。それを表現したものが感想になる。
植物が成長し枝が広がり葉が茂り花が咲く。そして最後には花も葉も落ちて果実が結晶化する。さらに時間がたつと果実すらなくなり本質的な種だけが残り次につながっていく。種にはその植物の全体の本質が凝縮されている。古典と同じ。古典にはその地域のその時代の本質が凝縮されている。植物は枯れて何も残らないが種だけが残る。時代は過ぎ去り何も残らないが古典が残る。それと同じようにラスアス2も時間がたって記憶は薄れる。しかしすぐれたゲームであればそれぞれのプレーヤーに何かしら果実のような結晶を残す。さらに時間がたつとほとんど忘れてしまう。しかし本質的な種である結晶は残りそしてその後の人生につながっていく。私が述べた感想がラスアス2が私の中で引き起こした化学反応の結晶である。私の中にラスアス2が残した本質である。
■追記終り
■モーツァルトピアノ協奏曲25番第三楽章
■モーツァルトピアノ協奏曲24番第一楽章
■上部の画像はガウディ
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