自分の苦悩から発する哲学

私は若い頃非常に苦労した。今でも鏡を見ると自分の顔にその時の苦悩の跡は色濃く読み取れる。以前書いた記事からコピペする。 以下コピペ。

志の深さはその人の悩みの深さに比例する。

悩みが深すぎるとその人の人生を崩壊させてしまう。深い悩みは確かに時に残酷である。しかしその人の精神が深い悩みに耐えられるなら、そしてその人がその悩みと戦うなら、その悩みは「志」になりえる。

苦しみの深さは問題解決のための「動機の深さ」であり、苦しみの深さは苦しみに耐える「精神の強さ」であり、苦しみの深さは解決すべき「問題の大きさ」である。

深い動機と精神の強さがあれば、志を実現するうえで困難があっても最終的には屈しないだろう。解決すべき問題が大きければ、最終的になす仕事も大きい仕事になるだろう。苦しみは恐らく天が人に与えている。

『菜根譚』に次の言葉がある。

書下し文
逆境のうちに居らば、周身皆鍼箴薬石にして、節を砥ぎ行を磨きてしかも覚らず。順境のうちに処らば、満前尽く兵刃戈矛にして、膏を鎔し骨を靡してしかも知らず。

現代語訳
逆境にあるときは、身の回りの全てが針灸や薬となり、節操を砥ぎ行いを磨いているが本人はそれに気づいていない。 順境にあるときは、目の前のすべてが刃や戈であり、自分の肉を溶かし骨を削っているのだが本人は知らずにいる。

深い苦しみを得て、もしその苦しみに耐え戦う気持ちがあるならば、本人は一切気づいていないが、その苦しみは大きい仕事をするための準備になる。そしてその解決のために常に学ぶようにしていれば、やはり本人は気づいていないが身の回りのこと全てがその人のための薬になる。

深い苦しみを持ちそれと戦う人は、必死になってその苦しみの原因を特定し、徹底的にそれを解決する方策を考え、同じ問題を探求した先人の書物を紙に穴が開くほど一字一句読み込み、何百回失敗してもあきらめず試行錯誤を繰り返す。

客観的に見ると本人を磨くうえでそれ以上のことは恐らくないにちがいない。しかし主観的には本人は「なぜ皆は順調に人生を進んでいるのに自分だけこんな無駄な回り道をしなくてはならないのか。」と思う。かなり以前の記事だが、『もののけ姫』の解説で主人公アシタカを例に同じ内容を解説している。

E.H.カーの『危機の二十年』から引用する。

苦悩は時に本人の意思を強め、その知性を研ぎ澄ます。

苦悩はその人の意思を強めることでその人が仕事を行うための精神的強さを与え、知性を研ぎ澄ますことでその人が問題を解決するための手段を与える。知性がないと問題を解決できないからである。

以上コピペ。 『孟子』告子章句下に次の言葉がある。

書下し文
天のまさに大任を是の人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を餓せしめ、その身行を空乏せしめ、その為さんとする所を拂乱せしむ。心を動かし性を忍ばせ、その能くせざる所を増益せしむる所以なり。人常に過ちて然る後に能く改め、心に苦しみ慮りに充ちて然る後に作り、色に顕れ、声に発して、然る後に悟る。

現代語訳
天が重大な任務をある人に与えようとするときは、必ず最初にその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その肉体を飢え苦しませ、その行動を失敗ばかりさせて、意図と結果を食い違うようにさせるものだ。これは天がその人の心を発憤させ、性格を辛抱強くさせ、それまでできなかったことをできるようにさせるためである。人は間違えて初めて悔い改め、心に苦しみがみちてのち発憤し、その苦悩が顔色に表れ、うめき声として出てくるようになってはじめて、心に悟るのである。

孟子の言う通り成長には苦悩が必要である。天に選ばれた人間でなくても同じ原理は働く。しかし重要なのは単に苦悩があるからといってそれだけで成長が生じるとは限らない点である。解決のための正しい努力をし、正しい努力が実を結び、苦悩が解決する過程で成長が生じる。それが私の実感だ。恐らく苦悩が完全に解決すると成長は止まるのだろう。それ以降はゆっくりとした安定成長に切り替わる。苦悩があるうちはまだまだ伸びしろがたくさんあるということになる。苦悩が解決する過程で成長するが、苦悩が解決した分だけのびしろは無くなっていく。

エリック・ホッファーの『情熱的な精神状態』から引用する。

我々は自分の才能を開花させるか、多忙に紛らわすか、自分とはかけ離れた何か ―― 大義、指導者、集団、財産などど自己を同一化するかによって、価値の感覚を獲得する。三つの方法のうち、もっとも困難なのは自己実現であり、他の二つの道が多かれ少なかれ閉ざされたときにのみ、この道は選択される。才能のある人間は、創造的な仕事に従事するよう激励され刺激されねばならない。彼らのうめき声や悲嘆の声は時代を超えてこだまする。

「もっとも困難なのは自己実現であり、他の二つの道が多かれ少なかれ閉ざされたときにのみ、この道は選択される」とあるように自己実現は苦悩によって人生に行き詰まった人間がやむを得ず選択する道なのかもしれない。

『論語』に次の言葉がある。

書下し文
孔子曰わく、
生まれながらにしてこれを知る者は上なり。
学びてこれを知る者は次なり。
困しみてこれを学ぶは又その次なり。
困しみて学ばざる、民これを下と為す。

現代語訳
孔子がいわれた。
生まれながらにして道を知る者は最も優れている。
学んで道を知るのはその次だ。
人生にゆきづまって道を学ぶものはさらにその次だ。
人生にゆきづまっても道を学ぼうとしないのは、一般の人民からも劣った人だと言われる。

人生に行き詰ってその解決のために思想を学ぶ者がいると指摘している。原文の「困」は木が四方を囲まれにっちもさっちもいかなくなり、完全に行き詰った状態を指す。人生に行き詰りどうにもならなくなってその解決のために思想を学ぶ者を指している。

悩みとその解決から得るものが成長である。

成長の大きさ = 悩みの深さ × 解決の度合

が成立する。いくら悩みを完全に解決しても悩みの質が浅ければ、得る成長も小さくなる。同様にいくら悩みが深くてもほとんど解決できなければ、得る成長はやはり小さくなる。掛け算なので「悩みの深さ」「解決の度合」の片方が小さければ、得る成長はゼロに近い。知識が総合されるためには「悩み」という核が必要である。 悩みを解決するために得た知識は、悩みが接着剤のようになり、どういうわけか自然に総合される。 総合された活きた知識になる。生きた思想になる。

私はまだ自分の苦悩を解決していない。解決するまでは修行中の身である。それまでひとり研鑽を積みたい。


■上部の画像はガウディ

■このページを良いと思った方、
↓のどちらかを押してください。



作成日:2023/3/20