歴史にifはあるか

最近は引き続き歴史の本を読んでいる。読んでいるとき時々自分がその歴史の当事者になったつもりで、自分ならどうするかを考えることもある。必ずしもいいアイデアは出ないけれど、考えながら読むと内容が入ってきやすい。

「歴史にifはない」という言葉がある。誰が言い出したか分かっていないようだが、有名な言葉である。歴史の専門家にもこの言葉を信じて実践する人もいる。逆に素人の歴史ファンには、歴史のifを考えすぎてほとんど妄想的な歴史展開を考える人もいる。

おそらくどちらも正しい中庸が取れていない。

「歴史にifはない」とする立場をとると、歴史の流れはすべて必然で、歴史をつくった当事者たちには、あたかも選択の余地はなかったという前提になってしまう。しかし歴史をつくった人たちは「もし今自分がこの政策を行ったらどうなるか?」「逆にもしこの政策を行わなかったらどうなるか?」と常に考えていたはずである。ifの連続だったはずだ。インターネットで「ある出来事の意義を考察するには、その出来事が起きなかったらどうなっていたかを考える必要がある」と述べた人もいる。

しかし逆に歴史のifを考えすぎるのも正しくない。あたかも何でもありえたかのような前提に立ってしまうからだ。妄想の領域になってしまう。歴史小説であれば場合によっては良いのかもしれないが、史実としての歴史を語るのであればよろしくない。

正しいのはこの場合に関してはバランス型中庸である。妄想にならない合理的な範囲で最低限のifを交えながら歴史事象の意義や歴史展開の可能性を考察する。恐らくこれが正しい。

歴史にifがあるかという問題は、最終的には人間に自由意志があるかという問題と関係してくる。もし人間に自由意志があれば、歴史的判断を下した人たちにも自由意志があり、当事者たちは他の選択肢をとることがありえたということになるからである。

私は人には自由意志があると思っている。ただほとんどの場合少ししか自由意志がない。たとえて言うと大海に浮かぶ小舟のようなものである。小舟はその人の意識であり、海は社会でもいいし無意識でもいい。

海を社会とするなら、社会が平和で安定していれば、人は穏やかな海を進む小舟のようで自分の意志である程度進める。しかし動乱の時代であれば、嵐の中を進む小舟のようであり、荒波に対処するだけで精一杯である。

海を無意識とするなら、その人が精神的に健康であれば、穏やかな海を進む小舟であり、精神的な病があれば荒波を進む小舟である。

偉大な人物であれば小舟ではなく大船になるが、基本的な構造は同じである。

人間に自由意志があるかと言う問題はいつか書きたいと思っているが、先に自然科学の決定論や非決定論の議論や複雑系の勉強をしてからでないと本格的には論じられないので、これ以上論じない。いずれにしても人間に自由意志があれば、間違いなく歴史においてifをある程度想定することは正しいという結論になるはずだ。

たしかに神の目から見るとすべては必然かもしれない。しかし人間から見るとすべては必然では決してない。だから「歴史にifはない」という立場は、人間が神の立場に立とうとする間違えた立場である。

歴史のifを追いかけすぎるのも同様である。神の目からすると全てのifをたどることができるかもしれないが、人間には不可能である。歴史のifを妄想的に追うひとたちは、人間が神の立場に立とうとする間違えた立場に立っている。

要はこの場合においてはハーモニー型中庸は不可能である。人間には不可能なのだ。神のみに可能な立場だと言える。我々にとって正しい立場はこの場合においてはバランス型中庸である。

■作成日:2024年4月27日


■上部の画像は葛飾北斎

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