私は大学は東京大学に入学した。そして大学4年のとき中退した。東大に通っていたので大学時代は当然周りは東大生ばかりだった。知り合いも学内に当然沢山いた。だから東大生に対して学歴という点では劣等感は全く持っていない。私が東大を中退したことで私の世間的な評価は急落したかもしれないが、思想の実力は落ちていないからだ。
哲学は独学が利く。いや独学しか利かない。確かに最初の4年くらいは大学で対面授業を受けたほうがいい。長い年月をかけてある分野を修めた人の肉声を聴くというのは貴重な体験だ。「これが本当の哲学か」と確かに感銘を受けた。しかしその後は大学外でも自分で成長していくことは全然可能だ。別に実験器具も設備も資金も人脈も先生もいらないからだ。
大学後の職歴という点ではみんなと大きな差がついたのは痛いほど実感している。かといって出世したいかと言われればそうでもないけれど。
世の中には東大に反発する人がいる。私は中退後は評価が急落したので反発されることは無くなった。「こんなもったいない人は初めて見た」とか「あなたは落差が大きいね」とかは言われるが反発はされない。でも在学中は反発されることはよくあった。反発心が邪魔して東大卒の人の話を素直に聴けない人がいる。私にはそれはない。逆に東大生をすごいとも思っていないので、たまにある東大卒の人を過大評価したりするのもない。
しかし私は東大「中退」である。だから正式には高卒だ。厳密に言うと大学中退後、専門学校を卒業したので専門学校卒になりそうだが、更に厳密に言うと1年半のコースの学科だったが短期のコースのため専門学校卒はつかない。二年制以上じゃないと専門学校卒にならないらしい。だから正式には高卒である。自分では半ば自分のことを高卒だと思っている。だから東大卒の人にたまにある、他の大学卒の人の言うことを軽んじて端から否定するような傾向は私にはない。
東大卒の人に対しても高卒の人に対しても偏見なく客観的に話を聴けるというポジショニングをとっていることになる。成長オタクである私にとってはこのポジショニングがもっとも都合がよい。誰の話も偏見なく聴いて自分の成長につなげられるからである。
サッカーに詳しくないが、論じると、サッカーでもポジショニングは大事だろう。技術ももちろん大事。ドリブル、キープ力、パスコースが見える力、パスの精度、トラップ、シュート力、ヘディングなどなどボールを持っているときの技術は大事。しかしそれだけではなくボールを持っていないときのポジショニングも大事なはず。技術だけではなく、そもそも「どこにいるか」が大事なのだ。
相手が東大卒業というだけで反発して話を聴かなくなる人がたまにいるのを私は知っている。逆に他大学の人の話は端から聞く耳もたない東大卒の人が一部いるのも私は知っている。私はその両方がない。東大中退というポジショニングのおかげだ。
他大学を馬鹿にする東大卒の人はたまにいる。言っておくがほとんどの人はそうではない。しかし一部、確かにいる。そういう人に反発を感じる人もいるかもしれないが、反発する必要はない。他大学の人の話を聞けなくなる東大卒の人は成長という点から致命的なマイナスであるからだ。日本人のほとんどは東大以外の大学卒なので、そのような東大生は、他人から学ぶ機会から遮断されたかわいそうな人たちなのである。成長オタクの私からすると致命的な欠陥である。
twitterなどSNSを含むネット上では東大の人、高卒の人色んな人がいて交流があるが、偏見がないので純粋に投稿内容で判断できる。要は何の実りもない学歴をめぐる単なる感情的な対立から無関係でいられるのだ。狙ってやっているわけではないが、これはSNSをやるうえでかなりいいポジショニングではないかと思っている。実際twitterで出会ったいわゆるFラン大学卒の人たちで「この人すげーな」と思う人は現に何人もいた。偏見のせいで学べなくなるのはもったいない。もっとも大学中退を勧めているのではない。失うものの方が多いのでやめといたがいい。学歴の偏見はなくなっても職歴の遅れは取り返しがつかなくなる。
『論語』述而篇に次の言葉がある。
書下し文
子曰く、我三人行えば必ず我が師を得る。その善き者を択びてこれに従う。その善からざる者にしてこれを改む。
現代語訳
孔子が言われた。私は三人で行動したら、必ず自分の師を見つける。善い人を見たらそれを見習う。善くない人を見たら反面教師として自分を改める。
孔子ほどの偉大な人が他人から学ぶことがあるのかと我々は思いがちであるが、逆に孔子だからこそ他人から学ぶことを見つける能力に優れているのかもしれない。「聖人は狂人の言葉をも聴く」と『史記』にある通りだ。
amazon.comの創業者ジェフ・ベゾスと若い頃に一緒に働いた人の言葉に次の言葉がある。
ベゾスは誰からでも学ぼうとします。彼がなにも学ばなかった人などいないと思いますよ。
ジェフ・ベゾスも孔子と同様、誰からでも学ぼうとした。ふたりとも成長オタクだったのである。
『論語』泰伯篇に次の言葉がある。
書下し文
能を以て不能に問い、多きを以て少なきに問う。
現代語訳
能力がありながら能力がない者に質問し、知恵豊かでありながら知恵が少ない者に質問する。
孔子もジェフ・ベゾスも能力がありながら自分より能力がない人たちから積極的に学ぼうとしたのである。
『採るべき人、採ってはいけない人』という人事に関する本がある。引用する。
学力の高い人は「偏差値の高い大学の学生や卒業生」というわかりやすいグループの中に存在しますが、思考力の高い人が多く属するグループというのは存在しません。思考力の高い本当に優秀な人は、どんな学力層にもほぼ均等に存在するので、高学力が属するグループを縁遠く感じる小さな会社の社長さんにも、思考力の高い本当に優秀な人材と接触できる機会は平等に与えられていることになります。
本当に優秀な人が特定の学歴、経歴、所属団体などに集まっていることはありえず、どんな場所にもどんな層にも、優秀な人は少数ながら均等に存在するのです。
「思考力の高い人が多く属するグループというのは存在しません」というのが面白い。一定の観点から見た試験、特定の能力が優れた人を集める試験はある。物理学の試験をすれば物理学に優れた人を選抜できる。物理学に優れた人は優れた人かもしれない。しかし物理学に優れていない人でも優れた人は当然ながらたくさんいる。要は本当に優れた人を選抜する試験は基本的に存在しないというのだ。そんな試験があれば優れた人が集まるグループが存在するはずだからだ。もしかしたらそんな試験は存在するかもしれないが、手数がかかるので日本人全員をテストできないはずだ。
東大で「こいつすごいな」と思った相手の多くは後期試験入学者だった。前期試験は普通の学力テスト。私は前期試験。後期試験は論文試験である。論文が認められて入学するのが後期試験入学者だ。しかし論文試験で試験を行うのはかなり手間がかかる。だから後期試験入学者は非常に少なかった。後期試験はある程度本人の能力を見る試験と言っていい。しかしどうしても数は限られる。それに優れた論文を書ける人は確かに優れた能力があるかもしれないが、優れた人のうち優れた論文を書けない人はたくさんいる。だから論文試験も含めて試験はほとんどの場合特定の能力を測るだけであり、優れた人を選ぶ試験は存在しない。
「本当に優秀な人は、どんな学力層にもほぼ均等に存在する」とある。私は知り合いはそんなに多くないが、東大生を何人も知っており、Fラン大学卒の人も知っている。この言葉は私の実感と一致する。
東大中退というポジショニングだと自然に学歴に対する偏見はなくなり、相手を過大評価したり、過小評価したり、反発したりすることなく、純粋に内容を見て、本質を見ることができる。ノイズがなくなる。いずれにしてもこれも一応「自然な力」だろうか。
偏見を持たぬよう意識的に努力することもできる。しかしそれは努力している時点で何か無理があり、間違いの可能性が高い。悪い意味での「人為」である。恐らく意識的な努力は一時的な効果しかないだろう。東大中退だと無理せず何もしなくても偏見から解放される。
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作成日:2023/4/23