図解と超訳

最近図解で本の内容を分かりやすく紹介したり、超訳で分かりやすく古典の内容を伝えようとするのが流行している。 賛否両論あると思う。

内容の薄いビジネス書の図解はいいと思う。図解で手軽に読めて、読む側も時間の節約になる。ビジネス書は内容が薄いので、読む価値がないかというとそうとも限らない。読む価値がある場合もある。だから図解してもらえるのはありがたい。

しかし古典の図解はあまり意味がない。図解は、登山でいえば標識みたいなものだ。「ここから右に50メートル行くと休憩所です。」とか「ここから左に5キロ行くと山頂です。」とか。確かに分かりやすい。

しかし図解だけで古典を理解しようとするのは標識だけ見て登山した気分になるのと同じだ。だから古典の図解を批判するのはよく分かる。

私もたまに図解をするが、それは図解だけを見て古典を読んだ気になるために図解するのではなく、古典を読み解く際に助けになるようにと思って図解をする。

図解のための図解ではなく、古典を読むための図解だ。登山のたとえで言うと、標識のための標識ではなく登山のための標識だ。

超訳も同じだ。古典を曲解してある意味現代人に迎合したような超訳もある。そっちの方が商業的に売れるだろう。それを批判するのは正しいかもしれない。

しかし私も超訳をする場合がある。超訳には二種類ある。

商業的目的から現代人に迎合して古典を曲解するための超訳。

思想的目的から現代人に理解しやすいように古典の本質を捉えるための超訳。

そしてもうひとつの訳の方法。

人文科学的目的から現代人のことは考えず古典の文字に忠実な直訳。

最後の直訳は分かりやすさより、学問的人文科学的な文字面に対する正確さを重視する。

商業的超訳は分かりやすさを重視して古典の本質から離れており、人文科学的直訳は文字面に対する正確さを重視して古典の本質から離れている気がする。

『近思録』致知篇に次の言葉がある。

現代語訳
古典を学ぶ者で古典の文章に忠実でない者は、古典の本質から完全に離れてしまう。古典の文章に忠実な者は、古典の言葉に拘泥して古典の本質に通じない。

書下し文
学ぶ者の文義に泥まざる者は、また全く背卻して遠く去る。文義を理解する者は、また滞泥して通ぜず。

「古典を学ぶ者で古典の文章に忠実でない者は、古典の本質から完全に離れてしまう。」とは商業的超訳を指している。「古典の文章に忠実な者は、古典の言葉に拘泥して古典の本質に通じない。」とは人文科学的な直訳を指している。念のため言っておくと日本で出版されている儒教の古典の翻訳はほぼ専門的な学者の翻訳だが、「古典の本質から完全に離れている」というつもりは全くない。非常に本質を捉えいる訳も非常に多い。ただ文字面に忠実で本質を捉えない人も確かにいる。

恐らく正解は中庸にある。文字にしっかりと依拠しながら文字にとらわれず、その本質を分かりやすく伝える。思想的超訳が正しいと思っている。


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■上部に掲載の画像は山下清。