「あいつらにはこれが無い」の一面性

人は他人と接するとき、自分の持っている長所に着目し、相手がそれを持っていないことに着目する。他人と接するとき「おれにはこういう長所がある。でもあいつにはそれが無い。」と思う。もちろん他人の長所を見るときもある。しかし大雑把に言うと人は自分の長所に着目する。本当は相手のほうがすぐれている側面もあるが多くの場合それは見えない。

もちろん自分の長所を相手が持っていない、というのは、それはそれで合っている場合がほとんどだし、そう思ったほうが自分の持っている真理を守れるし精神的健康を保てるのでよいのかもしれない。一面的だが必ずしも悪いわけではない。

個人の場合だけでなく世代でも同じだ。同じ日本人でも「我々の世代にはこれがある。しかし上の世代にはこれが無い。」と言う。逆に「我々の時はこうだった。最近の若い者は・・」と言う。同じ日本人でも他の世代の言うことを理解するのは至難である。

それぞれの世代にはそれぞれ言い分がある。主張すべき真理がある。しかしそれぞれの世代がそれをうまく言語化してくれるとは限らない。部分的に合っていても、部分的に間違えているケースも多い。大雑把に言うと年配の世代であれば、うまく言語化してくれる傾向にはあるが、それでもその世代のいろんな人の考えを聞いて真意を捉え総合しないとよく分からない。

若い世代の言い分はもっと難しい。よく分からない。30才くらいになってはじめてその世代の主張をうまく言語化してくれるひとが、ちらほら現れる。20代の人たちの世界を理解するのは難しい。

世代の持つ真理を言語化するのは本来思想家がすべきであるという気がする。思想を勉強している人たちは確かに古典を読む力があり、それはすごいのだが、その古典の理論が先入観になって素直に現代日本のことを見たり感じたりできてない気がする。私自身現代日本を良く知っているわけではない。思想家より小説家のほうがよっぽど素直に現代日本のことを書いている気がする。

いずれにしてもその世代が持つ真理をうまく言語化してくれる人が現れると現代日本のことがよくわかる。若い人はそれができない。私自身そうだった。私はロスジェネでありフリーター世代だが、大学を中退したとき、自分がなぜフリーターになるのかを明確に言語化できなかった。大人たちがひいた人生のレールの通りに生きていくと息苦しくなるという「感覚」はあったが、それをうまく言語化できなかった。

後から堺屋太一が言っているのを聞いたが、彼によると戦後の日本人の人生は官僚が設計したという。高校か大学を出た後、すぐに就職し、30才くらいで結婚し、住宅ローンを組み、同じ会社に定年まで勤め、退職金と年金で老後を暮らす。たしかにそれは「正解」なのかもしれない。いちどレールを外れるとそのレールに戻るのが難しくなっているので、この「正解」は半ば強制される。

今思えばこのレールにのって進んでいくのが、個性が抹殺されるようで途中から苦しくなったのだと思う。何か窒息するような息苦しさがあった。レールは「正解」かもしれないが、「正解」は「お勧めはしても強制はしない」というのが、ほどよい中庸のような気がする。

我々の世代も自分たちの考えを言語化できるようになったのは30才くらいになってからだ。ある同世代の人が我々の世代がフリーターになったのは大人たちがつくった社会へのストライキだと言っていた。「そういえばそうだな」と思ったのをよく覚えている。私自身自分の世代の考えを言語化できるようになったのは最近である。いずれにしてもひとりでもその世代の主張を言語化できる人が現れると世代間の理解が促進される。

自分の長所に注目してしまうのは国際関係でも同じである。「我々にはこれがある。彼らにはこれが無い。」と思う。例えば日本人は日本美術を見て、繊細な精神性があると言う。そして中国美術を見て繊細さがないという人もいる。逆に中国人は中国美術には大きな精神性があると言う。そして日本美術はスケールが小さいという。双方の言うことは当たっている。私は日本人だが、海外の文化が非常に好きなので両方の気持ちが分かる。

日本人は10人いれば、7,8人は日本文化しか受け付けず、日本の価値観に埋没している。一部、10人に2,3人ほど非常に海外の文化が好きな人がいる。自分の国の価値観に埋没しているのは日本人だけではない。ほかの国もそうである。例外はもちろんある。どの国にも他国の文化を深く理解する人は必ず一定数いる。しかし国全体としては他国の文化を深く理解する国は皆無である。日本もそうである。

いずれにしても「世界はひとつ」というのはまだ現実ではない。西側諸国は恐らくアジアの文化を抹殺することで世界をひとつにしようとしているかもしれない。しかしイスラム、インド、中国など東洋にも偉大な文化はある。人類が本当に進歩するのであればこれらの偉大な文明は再認識されるはずだ。消えることはないだろう。

世界中の偉大な思想をもとにして新しい思想ができることが本当は重要である。しかしそれは簡単ではない。うまくいったとしても何世代にもわたり何百年かかかるだろう。

世代の話をしたときに、若い世代は自分たちの真理を言語化できないと言った。年配の世代ですら言語化は完全ではない。しかし外国の場合は部分的には、その国が持つ真理が言語化されている。思想の古典である。その国の持つ真理が的確に表現されている。その古典を読むとその国の持つ真理の2,3割くらいは分かる気がする。もちろんその国の文化に触れ、何より現地を訪れ旅行する必要はある。

ロスジェネのもつ真理を的確に言語化した古典などは存在しない。しかし例えばインドの持つ真理を的確に表現した言葉は残っている。それで全部が分かるわけではないが、古典を深く理解できればその国の思想の一番大切な部分を理解できる可能性がある。

■作成日:2023年12月18日


■上部の画像は葛飾北斎

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