地位を見る人 内容を見る人

2022年10月15日

社会で働いていて思うのだが、人間はほとんどの場合相手の地位とか金を見る。社会とは当然そういうものだと最初から思っている。しかしごくたまに、地位や金など表面ではなく相手の中身を見る人がいる。私は文章を書くのを趣味にしているが、私を判断する時に私の地位や金ではなく、文章の内容を見て判断してくれる人がたまにいる。そういう人が現れるたびにちょっと驚く。

そういう人に共通しているのは、学問でも文化でもビジネスでも何でも自分のやっていることに本当の意味で情熱を持っている点だ。自分のやっていることの中身に情熱を持っている人は、他人を見る時もまず相手の中身を見る。自分のやっていることに本当の意味で情熱を持たず、地位や金のためにやっている人は、やはり相手の地位や金を見る。

100%相手の地位や金を見る人はいるかもしれないが恐らく少ない。100%相手の中身を見る人も恐らく少ない。ほどんどの場合はその混合だ。「地位:中身」の割合が「5:5」とか「7:3」とか。私は「2:8」くらい。

売れている人たちにはたくさんの人たちが集まってくるし、多くの人々に自分の作品を届けられる。しかし多分だが、本当にその人の作品を理解する読者というのは、売れている人にとってもそんなに多くないのではなかろうか。自分を理解する読者というのは、売れている人にとっても、私のような一般人の物書きにとっても貴重な存在だと思う。

売れるとたくさんの人に文章を届けられるのは事実だ。しかし売れない人間の気楽さとか自由さというのも確かにある。実際、私は当面ネット以外で活動する気がない。悪い意味での消極的なところがあるのは重々自覚しているが、修行中の身なので、現在はネットで読者を増やすのを目標にしていきたい。

2022年10月17日

現在noteをやっている。以前はtwitterをしていた。twitterで「いいね」をもらうと非常にうれしい。私は地位も名声もないから「いいね」を押してくれたのは本当に「いいね」と思ったからだろう。「いいね」をもらうことは非常に少ないが、少ないからこそもらった時にうれしい。

多くの人に自分の書いたものを届けたいという気持ちはあるが、たったひとりにでも自分の文章が本当に伝わったのであればそれでいい、と思う自分も確かにいる。もうしばらくnoteを続けてみたい。

2022年10月18日

以前twitterをやっていた。時々中断しながら続けていたので賞味1年くらい。現在はnoteを初めて賞味2か月くらい。実はネット上のコミュニケーションにあまり慣れていない。SNS歴は長いと言えば長いが短いと言えば短い。同じテキストでも論文を書くのは慣れている。でもネットにはあまり慣れていない。

twitterでもnoteでも相手が自分の文章を気に入ってくれて、自分も相手の文章を好きだという相手は必ず何人か見つかる。しかし交流が深まるとなぜか関係がうまく行かなくなる。ひとつは自分と相手の思想が根本的に違うという点にお互い気づかされる。私は忖度せずに言いたいことを言うので相手を怒らせる結果になる。もしくは逆に相手がこっちに忖度してしまうという結果になってしまう。価値観が違っていて深く付き合うと簡単に分かり合えるものではない。

もうひとつの原因は私のコミュ力不足だ。私は①ネット上のコミュ力が無く②舌足らずで③誤解を恐れず④言いたいことは言うので、しばらく交流するとどんどん誤解されていく(笑)。そろそろ学習してもいい時期だが、まだ改善できてない。④の「言いたいことを言う」のは変えたくない。②も簡潔さにつながるのであまり変えたくない。①と③を改善して何とか対応したい。

人間関係も軽くとらえると楽になるのは確かだ。楽になりどんどん交流していける。しかし敢えて重くとらえて反省や改善のための力にするという方法もある。何事も陰と陽があり二面性がある。軽くとらえると「楽になる」という「陽」の裏に「反省しなくなる」という「陰」がすでに含まれている。重くとらえると「悩み消極的になる」という「陰」のうちに「自然と反省する」という「陽」が含まれる。「陽の中にある陰が物事を動かし、陰の中にある陽が物事を動かす」と中国思想では言う。

軽くとらえて色んな人と交流し、重くとらえて改善するという使い分けがいいのかもしれない。それぞれの一長一短を認識して使い分けるのがいいと思う。

2022年10月19日

「軸があるから柔軟に対応できる」という発想はとても興味深い。軸がない柔軟性はただの風見鶏になるし、軸があってもそれに凝り固まっていては案山子のようで柔軟に動けない。

私は自分で思想家と名乗っているから思想が自分の軸になる。それを大切にし深めつつほかの分野も学んでいきたい。

大事なのは本質を捉えることだろうか。思想でも本質を捉えると本当の軸になる。そしてある分野の現象を捉えても、それは他の分野に応用できないが、本質を捉えるとそれは他の分野にも柔軟に応用できる。本質を捉えると軸と柔軟性の両方が得られる気がする。

2022年10月20日

私は分かりやすく思想を書くことを目標にしている。哲学は多くの場合分かりにくく、分かりやすさの必要を痛感している。

ただ分かりづらい話を聞くことは無駄とは限らない。例えば私は自然科学にも興味があるが、専門家が難しい科学の話をしていたとする。内容は分からないが、部分部分の話からイメージは広がる。「話が分からない」というのは話を伝える側にとっても話を聴く側にとってもマイナスである。しかし分からないからこそ、自分に分からない世界が広がっているということが分かる。

しつこいようだがこれも物事の二面性だ。「話が分からない」というマイナスはマイナスであるからこそ、「自分に分からない世界があることを知る」というプラスになる。陰があるから陽があり裏表の関係にある。短時間であればよく分からない話を聞くことにも意味がある。

2022年10月22日

10年ほどまえ、あるSNSで初めてSNSを体験した。私はどのSNSでもフォロワーは少ないが、どのSNSでも私に多少とも興味を持ってくれる人が必ず何人かあらわれる。そして話しかけてきてくれて交流が始まるが、その時のSNSでは同時に5人の人を相手にコミュニケーションをとっていた。

ネットのコミュニケーションになれてない人間が同時に5人と話すと大変なことになる。Aさんに伝えたい内容がDさんに伝わって誤解され、Dさんに伝えたい内容がBさんに伝わって誤解され、そのBさんの誤解を解くために発したメッセージがEさんに伝わってさらに誤解される。その時私は「・・・ああ、これダメだわ・・」と思った(笑)。

同時に5人と話すからいけないんだ、と言われればその通りなのだが、話しかけられるから返事はする。しかも相手はみなそれぞれに尊敬する人たちだった。もし5人から話しかけられれば5人に返答する。ネットのコミュニケーションはけっこう高度なコミュ力が必要だ。今でも似たような状況に追い込まれると四苦八苦する。

コミュニケーションがスムーズにいかないのはいつも誰にとっても同じかもしれない。しかし滞りの無さは大切だが本質ではない。スムーズだろうとなかろうと、SNSでは互いの中身を見て理解しあえることが貴重だと思う。そっちが本質だ。

どのSNSも雑音が多そうだ。フォロワーが多い人は内容を読んでもない人から「いいね」を押されることもあるのだろう。私の場合はフォロワーが少なく雑音はあまり入ってこないが、雑音の多い世の中で中身で理解しあえるというのはとても貴重だと思う。

2022年10月23日

私は以前twitterをやっていた。現在はnoteをやっている。SNSではフォロワーの数を競う人もいるが私はフォロワー数は関係ないと思っている。

フォロワー数が多くて優れた人も多い。しかしフォロワー数が多くて中身が面白くない人もたくさんいる。フォロワー数が少なくて優れている人もいる。フォロワー数が少なくてやっぱり優れてない人も多い。要は関係ないのだ。フォロワー数が多くても少なくても優れた人は確かにいる。

年齢も同じ。年齢が高くて優れた人も多い。年齢が高くても優れてない人はたくさんいる。私よりずっと若くてもキラリと光る個性を持った人は確かにいる。若くて優れてない人もいる。

金を持っているかどうか、学歴があるかどうか、都会人か田舎者か、などなど同じことが当てはまる場合はけっこうある。

もちろん自分の考えをたくさんの人に届けたいと言う気持ちはあるから、フォロワー数が多い人はうらやましい。しかしそれを劣等感には感じないようにしている。




■上部の画像は韓国の殊眼禅師の書。1940年。

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