ケマルアタテュルクという人がいる。トルコの英雄。 ケマルパシャ伝という本が日本でも出版されていた。 今は絶版なのかな。 アマゾンにレビューを書いて載せたがここでもツイートしておく。
第一次大戦でトルコはドイツ側にたって参戦。 イギリスのチャーチルが総司令官となりトルコを屈服させるため 絶対の自信をもって立てた作戦、ゲリポル半島上陸作戦。 戦略上の要衝ゲリボル半島に英仏の大軍が押し寄せる。
トルコの中でケマルただひとりあらかじめイギリスの作戦を見抜いた。 ここを取られたら終わりだ。 手勢を率いてゲリボル半島で待ち構える。 英仏軍に対し数も武装も圧倒的に不利な状況にもかかわらず 地形を熟知しているのを利とし必死で防衛する。
ケマルは後方で指揮を執るのではなくなんと弾丸が飛び交う最前線で指揮。 そのほうが状況を正確に把握でき的確で臨機応変な指揮ができるからだろう。
絶好のタイミングを見計らい敵への突撃の号令をかけるとき、 ケマルはひとりまっ先に塹壕から飛び出した。 その時敵の銃弾が彼の腕時計を砕いた。 しかしケマルは全く動じず右手を大きく上げる。 「全員突撃!!」と叫んだ。
トルコ兵たちはケマルの勇気に感激し、 危険をものともせず敵に突撃した。
英仏は大損害。20万近い死傷者数を出した。トルコ側も6万の戦死者を出す激戦。チャーチルは敗戦の責任を取って辞任。 「作戦は完璧だった。 しかしケマルという人物の存在を計算に入れていなかったことだけが失敗だった」 とイギリスの司令官は言った。
第一次大戦ケマルは奮戦した。しかし一司令官に過ぎず、トルコは第一次大戦で敗退。そしてセーヴル条約というトルコを滅亡させる条約にトルコ皇帝は保身のためサインする。
この条約は第二次大戦の日本で言えば、天皇自ら自分の地位を保つため九州中国四国はイギリスに北海道東北はソ連に関西中部はアメリカに割譲するようなものである。念のため言っておくが昭和天皇はそんなことはしていない。
そのときケマルがたった一人で立ち上がる。軍隊を集めトルコ皇帝ではなく自分たちこそトルコの正式な政府だとしてセーヴル条約の国際法上の有効性を否定。
そして列強の軍隊を実力でトルコから追い出したのだ。新たに条約を結んだが、なんとそれまでの治外法権を撤廃させ関税自主権を回復した。敗戦国なのに逆に不平等条約を破棄させたのだ。たった一人でトルコの独立を守った。
トルコの独立を守ったケマルは独裁者となる。 権力欲に憑かれた独裁者ではなく皆に支持されての独裁。 そしてトルコの近代化に尽力する。 それに目途がつくと信頼している部下に「お前野党をつくれ」と言った。 自ら独裁者の地位を降りようとした。 最初から私利私欲などなかったのだ。
世の中には直接的に間接的に自分に対して頭を下げさせようとする人もいるが、 どこか胡散臭いものを感じる。 しかしケマルに対しては私はなぜか自然に頭が下がる思いがする。
ケマルはトルコの近代化に尽くす。そのさい文字の表記をアラビア語表記からアルファベットに変更するという改革をした。私は日本語は漢字を使い続けるべきだと思う。しかしトルコ語はアラビア語の表記と非常に相性が悪いのだと言う。アラビア語は少しだけ勉強したがトルコ語は勉強したことがないのでよく知らないがそうなのだろう。
ケマルは自らアルファベット表記をどうするかを考え、自ら子供たちに教えたのだと言う。 「大統領がそんなことしなくても」という人もいるかもしれないが、おそらく実際に子供たちに教えてその反応を確かめてどのような表記にしたらいいかを探るためだったのかもしれない。いわゆる現場主義だ。自国語の表記をどうするかは非常に重要で国の根本にかかわる問題だ。ケマルはいい意味での慎重さも備えていた。
トルコは第一次大戦でドイツ側で参戦した。 地位が低かったためその意見は採用されなかったがケマルは必死で反対した。 ドイツの敗退をあらかじめ予測していたのだ。
ロシア革命でソ連が生まれた時も 「ソヴィエトロシアはロシア帝国以上の官僚主義国家になってしまい、民衆を窒息させるだろう」 と予言した。その予言はその後見事に的中する。
私は「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世頭おかしいよ。」とか「社会主義なんて上手くいくはずないだろう。」 とか言うが、それは後知恵である。
事後諸葛亮という言葉が中国にある。 結果が分かった後に「こうしたほうが良かったよ」とか偉そうに言うパターンだ。 私の発言がそれにあたる。 歴史を読むとき後世の我々には結果が分かっているのである意味仕方がないが。
ケマルは結果が分かる前にそれらを予測した。 結果が分かる前に予測できるということは、私とは違い何か物事の本質が見えてないとできない。 ケマルには本質が見えていたのだ。 事後諸葛亮は表面しか見えていない。
第一次大戦後セーヴル条約で祖国を売り飛ばそうとしたトルコ皇帝はみんなから見捨てられ、 オスマントルコは滅ぶ。ケマルの新生トルコが誕生。
新生トルコはオスマン帝国時代の領土から縮小した。 これもケマルの英断だ。 オスマントルコはもともと多くの民族の寄せ集め。 ケマルは領土をトルコ人が住んでいる地域にあえて限定した。
将来生じえる民族問題を未然に防いだのである。 クルド人問題は確かに残ったが、他には大きな民族問題は生じなかった。 ケマルは偉大な積極性のみならず正しい消極性も持っていたのだ。
さらにケマルはギリシアにいる百万のトルコ人とトルコにいる百五十万のギリシア人を住民交換した。 前代未聞。住民たちもそれを望んでいたので平和裡に交換は実現。 これも将来生じうる民族問題を事前に防止。 「一利を興すは、一害を除くに如かず。」耶律楚材の言葉のような先見性。
新生トルコの領土をトルコ人が住んでいるところに限定することをケマルは最大限に利用した。 トルコ皇帝が勝手に締結したセーヴル条約に代わってケマルは終戦の交渉をするためにイギリスら列強と交渉する。 いくら交渉してもイギリスはケマルたちの要求をのまない。ケマルは旧オスマン帝国のアラブ人が住んでいる領域をフランスに譲渡する提案をフランスに持ち掛けようとする。それにあせったのがイギリス。 その後の交渉で手のひらを返したようにケマルの要求を受け入れ始める。 そして敗戦国であるはずのトルコはローザンヌ条約でなんと不平等条約破棄を達成する。ケマル外交の勝利だ。
歴史を読んでいて「あれ!?こいつ他の人と動きが違うぞ!」と思う人物がたまにあらわれる。時代に流されるだけの多くの人々と違い、時代の本質を捉えて、時代をつくっていく人がたまにいる。ケマルはその典型中の典型だ。
ケマルの生前の写真を見るたびにケマルの鋭い眼光に強靭な意思と少し神に近いオーラを私は感じる。 この偉人の伝記を読んで何度感嘆したことか。 何度感動で鳥肌が走ったことか。 そして彼は日本の明治維新を尊敬していたという。 なんと光栄なことか!!
以上はアマゾンレビューで書いたのを下敷きにしている。 他の人が書いたレビューで非常に低評価のレビューがあった。伝記の著者がケマルに心酔しすぎていて興覚めだというのだ。 偉大な人物の伝記を書くときに必ず付きまとう問題がここにある。
偉大な人物を理解するということはその人物の偉大さを理解するということだ。偉大さを理解するとその人物に惚れこまざるを得ない。正しく理解すればするほどほれ込む。すると中立的な立場から逸れやすくなる。
その人物の偉大さを理解せずに伝記を書けばある意味「客観的」な伝記ができる。しかしその人物の偉大さを理解しない人物による伝記が正しい伝記とも思えない。その人物を理解していないからだ。
正しい伝記の書き方は、その人物の偉大さを理解し惚れこみながらも客観性を忘れないようにするという非常に困難な仕事になる。情熱という主観性と事実と論理にもとづく客観性の両方を持っていないといけない。情熱と自制心の両方が必要とされる。
■上部の画像はガウディ
「ベリュスガール」。
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